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2008年07月04日(金) ■ |
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ブログは、”彼”を止められたのか? |
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『週刊SPA!』2008/7/1号(扶桑社)の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス・672」より。
(秋葉原での通り魔事件について、鴻上さんが考えたこと。「”彼”を止めたかもしれない、ブログの可能性」というタイトルがつけられています)
【犯人が、もし、短い文章ではなく、長文で自分の現状を嘆いていたら、ひょっとしたら、ネットの闇からなにかが返ってきたのかもしれなかったと思います。 犯人は、何度も自分のことを「不細工」と書きます。「不細工だから無視されて当然」とかね。 ここに、まず、「ぶさいく村」の僕はひっかかったのです。 僕は「ぶさいく村」出身として、何度も悔しい目に会ってきました。だから、合コンで負けないように、言葉を覚えました。「ハンサム村」出身の奴らが遊びほうけている間、本を読み、文章を磨き、やがて「言葉の愛撫師」というニックネームをもらうまでになりました。えっへん。 もちろん、最初はうまくないです。何度も失敗します。でもね、口説くのも友達を作るのも、全部、技術なのですよ。人間関係を作るのは、全部、技術、テクニックと言っていい。悪い意味で言ってるんじゃないですよ。スポーツはすべて技術でしょう。一部の天才をのぞけば、いえ、イチローのような天才であればあるほど、技術がどれだけ重要か分かっていて、そのための毎日の練習を欠かさないでしょう。で、技術は、練習すればするほど上達するのです。 でも、人間関係も技術だと僕は知っているのです。友達を作るのがうまい人、口説くのが得意な人、みんな練習ですよ。失敗して、言葉を獲得して、感性を豊かにするいろいろな映画や小説や芝居などを見てシミュレーションして、テクニックを向上させてきたのです。練習をしない人間関係の天才なんているわけない。 でも、「ぶさいく村」出身は、この練習の機会がものすごく限られています。ベンチにずっといる選手どころか、甲子園で三塁側の応援スタンドでユニフォーム着たまま応援している三年生ぐらいに、実戦を体験する機会が少ないの。ために、ものすごくたまに女性と話す機会が来ると、あんまり久し振りなもんだからガクガクブルブル緊張して、必ず失敗します。 そんな時にね、ネットの長文は、表現力を磨くいい場所になるのです。長文じゃないと意味ないですよ。だって、長文だから、技術が向上するわけです。短文だと、俳句みたいなもんで、どれが上手いか下手か分かんないでしょう。事実、俳句は芸術かどうか、なんて論争が昔、あったんですから。 短文は、ただ、自分の心情をそのまま吐露したものが多くて、読者としては面白くもなんともないですからね。 少なくとも、毎回、2000字前後の長文を書いていたら、間違いなく、表現力は向上します。「不細工は死ぬしかないんだよな」なんていう短文じゃダメですから。で、向上すれば、きっと、読者の一人か二人はつくのです。
人間が自暴自棄にならないで生き延びるためには、たった一人、いればいいんです。一人の人が見ていてくれると思えば、死なないのです。 でね、問題は、長文なんだけど、今の自分が、「ありたい自分」とあんまり違っているから、とりあえず今の自分を守ろうと思って書いている人の文章です。じつは、自分の価値を守ろうとすればするほど、自動的に、見るもの・聞くもの・読むものを否定するようになります。 本当につまらなく感じるようになるのです。自分の価値を守ることと、周りを否定することは正比例するのです。 僕たちは、残念なことに幸福より不幸に敏感です。肯定より否定が得意です。なにかの作品を否定することの方が、肯定するよりはるかに簡単です。で、そういう方向なら、長文は簡単に書けるのです。そういう文章には、残念ながら熱心な読者は一人もつかないでしょう。 だって、みんな否定にうんざりして、じつは、肯定をずっと求めているんですから。 インターネットの時代になって、自意識が数値化されるようになりました。僕の二十代、否定だけを居酒屋で語り続ける奴は、周りからただ無視されたり嫌われたりしましたが、現在のように「コメント(0)」とか、一日のヒット数が表示されるなんていう、「数字によって冷酷に知らされる孤独」なんてものがありませんでした。えらいこってす。 このメカニズムが、ますまず、僕たちを肯定より否定だけを、楽観ではなく悲観だけを見つめるようにさせるのです。】
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この文章、けっこうツッコミどころはありますよね。「短い文章じゃダメ」っていうけど、短い文章でも技術は必要だと思いますし、俳句が芸術か?という論争が起こったのは、かなり昔の話です。
ちょっと脱線しますが、僕が調べたかぎりでは、昭和21年に桑原武夫さんが、俳句は「第二芸術」だと仰ったのがきっかけだったようです。もっとも、「たった17文字の組み合わせが『芸術作品』なのか?」というような疑問は、それ以前にも多くの人が持っていたのでしょうけど。結局、この論争には決着らしい決着がついたわけではないのですが、それでも、多くの人に賞賛され、記憶される句をつくるには、技術が必要であることはまちがいないでしょう。言葉としてありえない組み合わせもたくさんありますが、50音の17乗ですから、「たかが17文字」とはいえ、ものすごい数の組みあわせになるし、日本語というのは、同じ音でも違う意味になる場合がたくさんありますしね。
本題に戻って、ここで鴻上さんが書かれている「人間関係は技術だ」という言葉には、僕も深く頷いてしまいました。 僕も「ぶさいく村」だったので、「福山雅治みたいなルックスだったら、こんなに人間関係に苦労しないで済んだのに」とか、ずっと思っていたんですよね。 でも、年を重ねるにつれ、「モテる、愛されるっていうのは、ルックスだけじゃない」ということがわかるようになってきました。 (誤解されるといけないので書いておきますが、僕は福山さんのことをルックスだけの男だと思っているわけじゃないですよ。トーキングFM愛聴してますし) 「人間関係の達人」たちは、清潔な身なりで、気配りができ、コミュニケーションに対してマメなんですよね。これらは、「本気でトレーニングすれば、誰にでもできること」です。もちろん、「モテる」という点だけで言えば、けっこう「ルックスが良いだけの酷い男」が女性をとっかえひっかえ、という事例もあるんです。でも、「多くの人と、ある程度の期間、良い人間関係を保っていく」という点においては、顔の造型はそんなに重要ではないのだと思います。
ただ、鴻上さんが書かれているように、【「ぶさいく村」出身は、(とくに十代〜二十代前半の時期に)この練習の機会がものすごく限られている】のは間違いありません。そして、【ものすごくたまに女性と話す機会が来ると、あんまり久し振りなもんだからガクガクブルブル緊張して、必ず失敗する】のですよね。ああ、これはすごくよくわかる。 そして、失敗することによってさらに萎縮してしまい、次の機会を積極的に作る勇気もなくなっていくという悪循環。
そんな負の連鎖に陥ってしまっているとき、「ネットに長文を書く」というのは、本当に「有効」なのかどうか?
実際には、コンスタントに「ネットに2000字の長文を書く」なんていうのは、けっこう大変なことなんですよ。書くことに慣れた人ならそんなに負担にならない分量かもしれないけれど。 もちろん、そのくらいの「トレーニング」すらしないのであれば、「技術」が身につくわけないじゃないか!と言われれば、まさにその通りです。 ただ、これはやっぱり、万人にあてはまる「解決法」ではありませんよね。 僕の場合「文章を書くこと」であれば抵抗はないのですが、「1日5km走れ、そのくらいなら『可能』だろ?」とか言われたら、「可能だけど、やりたくない」ですから。
それに、「一人の人が見ていてくれると思えば、死なない」かというと、別にそんなこともないですし。南条あやさんの場合のように、多くの人が見ていて、応援しているのに(だからこそ?)死への欲求に引き寄せられるということもあるのです。
それでも、ここで鴻上さんが書かれていることが「役に立つ」人は、必ずいるのではないかと僕は考えています。 ここまで、鴻上さんが書かれていることについて、否定的な見解を多く書いてきましたが、こういうのがまさに【自分の価値を守ろうとすればするほど、自動的に、見るもの・聞くもの・読むものを否定するようになっている】のですよね。 ネットで誰かが何かを言うと、必ず「否定的な見解」「例外的な事例」を挙げて「それは間違っている」という人が出てきます。 それは、ある意味「正しい」のだけれども、じゃあ、この鴻上さんの話を「間違っているところがあるから」と全否定することによって、秋葉原で暴走した”彼”を止められるのか?
【だって、みんな否定にうんざりして、じつは、肯定をずっと求めているんですから】というのは、僕も実感しています。スピリチュアルとかに行ってしまう人が多いのは、「科学的に肯定できるものではないが、目に見えるかたちで否定できるようなものでもない」からなのではないかと。
「一人の人が見てくれている」としても「十人に否定される」ことも多いのがネットの世界です。 そして、【現在のように「コメント(0)」とか、一日のヒット数が表示されるなんていう、「数字によって冷酷に知らされる孤独」なんてものがありませんでした】なんていうのは、ネットが生み出した、「新たな孤独」なのかもしれません。 それでも、「ただその場で嘆いているだけ」よりは、「自分でドアを叩いてみる」ほうが良いのではないかと僕は思います。 ブログが、”彼”を止められたかどうかはわかりません。 ただ、「止められた可能性はあった」し、同じような境遇にある人は、ブログを「試してみる価値はある」のではないかと感じています。
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