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2007年09月11日(火)
日本人にとって、「大阪万博」とは何だったのか?

『どにち放浪記』(群ようこ著・幻冬舎文庫)より。

(群さんが1998年に『本の窓』(小学館)に寄稿された、「懐かしい人も初めての人も笑えます――『まぼろし万国博覧会』を読む――」という書評の一部です)

【『まぼろし万国博覧会』を読んで、私ははじめて、「万国博覧会」とは何かがわかった。「万博」のデータと、それをめぐる思い出がある人々のアンケートで構成されている労作だが、とても面白かった。多くの国の参加を要請したために、日本は牛肉の輸入を交換条件に出されたり、学校の建設や水道工事を求められたりした。また専門家を派遣したあげくに、展示が決まったのが「熱帯魚」と「熱帯植物だけ」だったり、人手がなく、館の設営の際には、ホステス役の女性がペンキを塗り、政府代表が床磨きをした国もあったという。
 開催国の日本は参加国との腹のさぐり合いもあったようだが、日本国民のなかでも騒動が起きた。いちばんの被害を受けたのが、京阪神地区の人々だった。年賀状には宿泊、切符を頼むという葉書がたくさんきて、いっそのこと転勤にならないかものかと悩んでいた人もいた。いざ開催となると、人々は裏技を使い、待たずに入館しようとする。
「親子でチャイナ服を着て列に割り込み、ワザと日本人じゃないフリをしてなるべく並ばずに見た」
 などという手の込んだ策略をめぐらす人や、迷子のふりなんていうのは序の口だったようだ。人気のアメリカ館ではこんな人もいた。
「おじいちゃんは月旅行そのものを信じてなくて、スタジオ撮影だと言い張ってました」
 こういうコメントがまたいいではないか。
 日本人は「万博」によって、外国を知った。それは食べ物であったり、トイレで出くわした大柄な外国人のおばさんだった。日本の万博が他の万博と一番違った点は、マイナーな国々の人気が高かったことだ。
「アフリカの国々のパビリオンのように、ほとんど並ばずに入れるところもありました。『こういうところにも入ってあげなくちゃ』と妙に義憤に駆られ……」
 というコメントも載っていて、ほのぼのする。また日本人は外国だけでなく日本をも知った。「万博」に行くためにはじめて新幹線に乗り、関西弁に接し、なかには父の愛人と会ったという人までいたのである。】

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 1970年に開催された「大阪万博」というのは、まだ自分が生まれていない時代の話でもあり、なんだかすごく昔の話のような印象があります。
 そして、僕にとっては「なんでみんな、万博万博って、懐かしそうに話すのかなあ、僕が実際に行ったつくば万博は、炎天下に並んでばかりで、あんまり面白くなかったのに……」というふうにしか思えなかったんですよね。いや、「太陽の塔」は確かにインパクトがあるけど、所詮「一発芸」みたいなもので、そんなに大騒ぎするような「芸術」にも見えなかったし。

 しかしながら、この書評を読んでみると、実際の「大阪万博」を知らない僕でさえ、あの「万博」は、何か特別なものだったのかもしれないな、という気がしてきたのです。
 ここで挙げられている運営側、そして来場者のさまざまなエピソードには、正直、「これ、ネタじゃないの?」と疑ってしまうものもあるのですが(「チャイナ服を着て日本人じゃないフリをして割り込み」なんて、そこまでやるか!って感じですよね)、地元で「万博」が開催されてしまったばかりに、周囲からいろんな手配を頼まれて困惑した京阪神の人々の姿には、同情してしまうのと同時に、「その時代の日本人は、まだまだそんなふうに親戚や友人に遠慮なく頼みごとができていたんだなあ」なんて、ちょっと驚いてしまうのです。アフリカの国々のパビリオンに「義憤に駆られて」入っていく日本人なんて、「人情噺」みたいだし。今の日本で同じような万博が開催されたら、おそらくみんな「つまらないパビリオンは、徹底的に無視」するのではないでしょうか。
 そして、海外旅行にどころか、関東から関西に出かけることすらそんなに頻繁ではなかった当時の日本人にとっては、「大阪万博」というのは、まさに「貴重な異文化交流の場」だったのですね。

 こうしてみると、やはり「大阪万博」というのは、後の神戸やつくば、愛知の博覧会とはかなり違う、「特別な万博」だったのかもしれません。日本がまだ混沌としながらも、新しく生まれ変わろうというエネルギーにあふれていた、そんな時代の象徴。それが「大阪万博」。
 行った人の大部分にとっては、「暑かった」「並んでばかりで疲れた」というのが「実感」だったとしても、それは、まちがいなく「歴史的なイベント」だったのでしょう。