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2007年07月29日(日)
「鳥葬」という最高の葬礼

※今回はややグロテスクな記述が含まれていますので御注意ください。


『経験を盗め〜文化を楽しむ編』(糸井重里著・中公文庫)より。

(「こんなお墓に入りたい!」というテーマの糸井重里さんと長江曜子さん(墓地研究家・家業の墓石店の社長もされているそうです)、佐々木幹郎さん(作家)との鼎談の一部です)

【糸井重里:ところで、佐々木さんはお墓参りが趣味とうかがいましたが。

佐々木幹郎:墓地へ行くのは好きですね。はじめての町に行ったとき、僕が町の全体像をとらえるために必ず行く場所が2ヵ所あって、そのひとつが墓地なんです。

糸井:もうひとつは何ですか。

佐々木:刑務所です。つまり都市というのは身元不明の人間が集まってくるわけですよ。すると、必ずアウトローが出てきて何かをやらかす。彼らを集める場所が刑務所なんですね。

糸井:ああ、社会ですね。

佐々木:そして墓地は、その身元不明の人間が最終的に入る場所です。この2つをおさえると、その年の輪郭が見えてくる感触があります。ところが、この理屈が通らない地域があって、チベット仏教とが住むチベット、ネパールとインドのヒンドゥー教徒の住む地域には、刑務所はあるけど墓地はない。

糸井:人々が移動しているからですか。

佐々木:いや、無墓文化なんです。ヒンドゥー教徒は火葬してガンジス川に流すでしょう。墓はないんです。ネパールなんて「墓」を指す言葉自体もない。

長江:そうらしいですね。

糸井:概念がないんだ。チベット仏教徒はどうしているんですか。

佐々木:チベット仏教徒にとっての最高の葬礼法は、死体をハゲワシに食べさせる鳥葬です。鳥葬は人間がこの世でなしうる最後の施しを鳥に与えるわけで、チベット仏教徒なら誰もが望んでいる尊い行為なんです。その次が火葬。ああいう高山地帯では、遺体を焼くだけの木を集めるのにお金がかかる。だからランクが高いわけですが、火葬の場合でも、骨はそのまま放っておいて、風に飛ばされるままにします。次が水葬で、ヤルンツァンポ川という大河へ、遺体を魚が食べやすい大きさまで千切って、流してやる。で、いちばん下が土葬です。これは疫病にかかった人か犯罪人、もしくは生まれて間もなく死んだ子どもの場合ですね。だけど、その埋葬法というのが、ちょっと地面を掘って、石を積み上げただけのものなんです。だから夜になると、チベットオオカミが食べに来る。

糸井:オオカミ葬になっちゃうわけだ。

佐々木:実際、土葬の場所に行ったら、オオカミがほじくりだした骨がいっぱい出ていました。でも、鳥葬もすさまじいんですよ。西チベットの、カイラスという聖山にいちばん近い鳥葬場がもっともステイタスが高いんですが、鳥葬場は広い岩の平面にあって、岩肌に血がこびりついていて、近くにさびたナイフが転がっていた。実は、鳥葬にあたっては、ハゲワシが食べやすいよう、遺体を切り刻んで砕いておくんです。

長江:丸のままじゃ、食べられないし、魂が早く天に戻れるように、と。

佐々木:ハゲワシはその準備が整うまで待っていて、人間たちが引き上げたら、一斉にザーッと群がるんです。僕が行ったときには、鳥が食べない髪の毛は残っていたけど、血も乾いていたから、「ああ、こんなふうにやられるのかな」と思って、その場所に寝ころんだわけ。その瞬間、岩山のまわりにいたハゲワシがバタバタバタッって……。

糸井:すごいな。

佐々木:僕はもう、走り回りましたよ、「まだ生きてるぞ!」って。

長江:証明しないとあぶない。

佐々木:さらにおもしろかったのは、鳥葬の場所の近くには、死んだ人が着ていた服などを集めておく場所があるんですけど、チベットの巡礼者は、そこへ行って、自分で着られる服を取っていくんですよ。

糸井:それじゃあ、巡礼じゃないじゃないですか。

佐々木:いや、結局、チベット仏教徒は、自分の生きた証が地上に何も残らないことを望んでいるわけです。そうしないと、輪廻転生できませんから。だから残った衣服を取ることも決して悪いことではないんです。死者が最後の功徳として、ハゲワシには自分の肉を捧げ、人間には服を残す。鳥葬天葬ともいいまして、ハゲワシは天に近いところまで自分の魂を持っていってくれる鳥なんです。

糸井:話を聞いただけで気が遠くなりますね。僕、お墓というテーマをずっと話したかったんですよ。というのも、ある対談を読んでいたら、「あなた、お墓に入る人?」っていうような会話があったんですね。そのとき、墓に入るか入らないかという人生の選択はすごいぞ! とびっくりしたんですよ。

(中略)

長江:アメリカ人は骨よりも遺体にこだわりますね。アメリカでは実はニューヨークでも75%近くは土葬で、火葬率は25%ちょっとしかないんです。復活の日に肉体が甦るという思想があるためでしょうが、ベトナム戦争や湾岸戦争のときでも必ず遺体を運んでましたよね。

佐々木:上海も、今は法律で火葬と決められているんですが、1965年くらいまでは土葬だったそうです。ところがね、その前年、来年からは火葬だと決まった瞬間、老人の自殺者が激増したんですって。数字を見て、びっくりしました。

糸井:火葬はイヤじゃ、と。

長江:中国の人は土葬を好みますからね。タイに行ったとき、普通、タイでは仏教徒は火葬にするんですが、中国の人は火葬を嫌がるので墳墓をつくる、とガイドの人が言っていました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この鼎談、初出は『婦人公論』の2000年7月号だそうですが、おそらく、チベットでもアメリカでも中国でも、そして日本でも、当時から「葬礼法」については大きな意識の変化はみられていないと思われます。

 チベット仏教徒の「鳥葬」というならわしについては、僕も耳にしたことはあったのですが、「世界にはいろんな葬礼があるんだなあ」というくらいの感慨しかなかったのです。
 でも、この佐々木さんの生々しい現地での話を読んで、その光景を想像してしまうと、正直「これは(僕にとっては)残酷だ……」と感じてしまいました。いや、ただ遺体を鳥葬の場所に横たえておくだけではなくて「ハゲワシが食べやすいよう、遺体を切り刻んで砕いておく」なんて、大部分の日本人にとっては、「そんな罰当たりな……」という行為ですよね。そこまでハゲワシにサービスしなくても良さそうなものです。

「葬礼の方法」には、本当に文化によって大きな差があり、チベット仏教徒にとっては「いちばん下」の土葬がアメリカ人や中国人の大部分にとっては、「もっとも望まれている葬礼法」になるわけです。
 チベット仏教徒たちにとっては、「土葬なんて、この世に未練を残しすぎだし、輪廻転生できなくなるのに……」という感じなのでしょうけど、それを他の伝統や文化を持つ人が受け入れるのは、なかなか難しいことのように感じます。
 まあ、こういうのは、どちらが正しい、というものではないでしょうし。
 時代背景や環境、地域によっては、衛生面での必要性などから、「遺体を集めて火葬するしかない」「遺体が見つからない」なんてこともあるのですから、「選べる」ことそのものが、すごく幸福なことなのかもしれませんけど。

「火葬になりたくないから土葬してもらえるうちに自殺してしまう」というのも、そこまでイヤなのか……と、考えさせられる話ではあります。
 僕自身も、宗教的な理由というよりは、「自分が火葬されている途中で、万が一でも息を吹き返したら……」などというようなことを想像してしまうので、正直「火葬を望んでいる」わけではないんですが。しかし、土葬で一度息を吹き返した後に窒息死というのも……
 現実的には、今の日本で「死亡確認」をされた人が「甦る」確率なんて、「ゼロに限りなく近い」はずなのですが。
 
 それにしても、「死ねば何もわかんなくなるんだから」って日頃は言っていても、そういうのって「気になりはじめるとキリがない」のですよね本当に。