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2007年07月21日(土)
日本人が失ってしまった「貧乏の知恵」

『月刊CIRCUS・2007年8月号』のインタビュー記事「荒俣宏〜博覧強記の巨人が語る、現代『意地っ張り男』のススメ」より。

【今の20代、30代の男たちって、「将来に対する漠たる不安」に悩んでるの? 我々の世代から見ると、今の日本人は何でもあって、何でもできて、うらやましい限りと思うけどねえ(笑)
 まあ、「漠たる不安」というのはいつの時代にもあることですよ。でも貧乏な人じゃなく、ぜいたくな人に縁がある。「ぜいたく病」ですね。かつて作家の芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自殺しましたが、それくらい高級です。「漠たる不安」、つまり究極のメランコリーと中性脂肪と、このふたつは心と体のぜいたく病です。
 もともと日本人というのは、なるべくそういう「漠たる不安」がないよう、「負けたふりして勝つ」とか、「裏と表」、「本音と建前」。あるいは「陰陽」、「ハレとケ」といった二重構造をうまく使って生きてきた大変賢い国民なんです。例えば経済で言うなら、つい最近までそうだったように、海外の物は国内に入れないようにするシステムを作っておきながら、日本から海外には物を売るとか、護送船団方式とか、二重構造を巧みに使い分けていました。
 その根底には「貧乏の知恵」があります。ビートたけしさんも言っていましたが、貧乏は輪廻みたいに連鎖するから、どこかで断ち切らなければならない。だから、両親は貧しい中でも必死に働いて子供に投資する。そのおかげで次世代に大学卒が増えて、ようやく輪廻を断ち切った。それが我々団塊の世代です。
 ところが、我々の世代は貧乏の連鎖を断ち切った喜びのために、そのノウハウを次の世代に伝えてこなかった。断ち切った後の幸せだけを見せつけたものだから、恐らく今の20代、30代はそうした大人たちの姿を見て、勝手なことやってるなぁと思ったはずです。本来なら「貧乏」というハンディに代わるあたらしい「重圧」が誕生したことを示さなければならなかったのに、男は「ちょいワルおやじ」だとか言って中年には似合わない軽いところしか見せないし、女性は女性で、本当は子供をまともに育てるには一生の半分くらいの時間とエネルギーを注ぐ方法も考えなけりゃいけないのに、「私もまだ女よ」とか言ってブランド物のバッグを持ったり浮気に励んだりする方向にエネルギッシュですよね。でも、それと同時に「お母さんのド根性」のようなものを次の世代に伝えなきゃならなかったんだけど、それをしてこなかったが我々の世代です。つまり、サブカルチャーなんていう「陰」だけ、あるいは逆に会社勤めという「陽」だけの世界で食べていけるようになり、社会が一重構造になってしまったんですね。
「オタク」なんていうのも、昔と今ではライフスタイルが違っていました。
 ぼくもそうですが、昔のオタクは、普段の日は夕方5時までしっかり働いて、その後の時間で趣味に没頭するという二重構造だったのに、我々の世代が、地道にコツコツ働く人を「つまらない」と排除して、面白いおじさんだけの世界にし、ハードワークのお母さんの役は誰もやらずに、カッコイイお姉さんの役だけをやってきてしまったがために、日本人がずっと持ち続けてきた粘り強いノウハウをなくしてしまった。
 人生の半分をあきらめる。でも、その代わりに、残った半分は死守する気概ですよ。相撲で言うなら、15戦全勝を狙うのでなく、8勝7敗をあらかじめ覚悟して、8勝7敗で生き抜く方法ですね。

(中略)

 小学校の給食費未払いが問題になってますけど、昔だって払えない人なんてゴロゴロいましたよ。でも、服を売ってでも歯を食いしばって払うことが、長い目で見ると有利だと知っていたんです。また、そうしないと地域の一員と見なされなかった。それで、「ちょっと味噌が切れちゃって…」なんて言って、隣近所に借りに行く人が結構いましたけど、それは「つき合いのコスト」のようなものでしたね。返してくれそうになくても、貸していたわけです。損したんじゃないんですよ。保険や年金に加入するのと同じです。助けてやれば助けてもらえるんですから、年金よりも確かな保障でしょ。
「つき合いのコスト」という意味では、談合システムというのも、日本の暮らしのノウハウと言えるでしょう。でも、談合がいまや社会悪と言われ、隣づき合いが怖い時代になった。つくづく今の人は不運ですよね。これを壊した張本人は我々団塊だけれども。】

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 今月で還暦を迎えられる、日本を代表する「知識人」である荒俣さん。まあ、この方の場合は、「知識オタク」と言うべきなのかもしれませんが。

 「今の30代の男たち」のひとりである僕としては、この荒俣さんの話に対して、頷ける部分がある一方で、「生きづらくなったこと」のすべての原因が「団塊の世代」に帰するというのは、ちょっと自分たちを買いかぶりすぎているのではないかな、という気もしたのです。

 ただ、僕がまだ子供で、「団塊の世代」の人たちも若かった30年前くらいに比べれば、確かに「自分の将来のために、あるいは次の世代のためにあえて損な役回りを引き受ける生き方」というのは流行らなくなってきているのかもしれないな、とは感じています。そして、「そんなこと言っても、自分の人生は一度きりなんだから、自分の人生を犠牲にしての『子育て』とか『介護』なんていうのは割に合わないよなあ……」と、僕自身も考えがちなんですよね。そしてそれはもう、後戻りできない「歴史の流れ」みたいなものではないかとすら思えてきます。それはもう、そういう生き方が「正しい」とか「間違っている」とかじゃなくて。

 いくら「昔はよかった」と言われても、今さら「隣近所に味噌を借りにいくような生活」に、この先日本人が回帰していくとも思えませんし、「談合システムが暮らしのノウハウ」だと言われても、賛成はしかねるのですけどね。今は「談合が必要悪」という時代ではないでしょうし。
 「服を売り払っても給食費を払うような生き方のほうが、長い目で見れば有利」だというのは、たぶん、現代でも同じなのではないかと思いますが、そんなふうに考えられない人たちが増え続ければ、結局のところ「払う人がバカ」だということになっていくのでしょうか。

 この荒俣さんの話のなかで、「現代はオタクに優しい時代」であるというのは、確かにそうなんだろうなあ、と感じます。昔は「オタク」として趣味に生きるためには「まずは一社会人として最低限の責任を果たすこと」を要求されていたのに、今はちゃんと働いていなくても、オタクとして生きていることが、それなりに認められる時代になってきました。それだけ日本は豊かになっている、ということなのでしょうが、それはある意味、過去の日本人たちの「貯金」を食いつぶしているだけのような気もするのです。

 「今は苦しいけれども、将来に希望を抱いていた時代」と「今はそれなりに豊かで好きなことができるけれど、将来には希望が持てない時代」とでは、いったいどちらが「幸せ」なのでしょうか?