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2007年06月27日(水)
「史上最高の人気プロレスラー」ゴージャス・ジョージの伝説

『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)より。

【第2次世界大戦以前、プロレスはリアルファイトのふりをしていた。プロレスは偽装されたスポーツだったのだ。多額の賭けが行われたために、ビッグマッチには必ずマフィアが絡んだ。レスラーたちはマフィアの指示通りに勝ち、あるいは負け、賄賂を受けとった新聞記者たちはプロレスの全貌を知りつつもスポーツとして記事を書いた。
 だが第2次世界大戦が終わり、まったく新しいメディアであるテレビジョンの時代がスタートすると周囲の環境は一変した。
 テレビを支えるのは企業スポンサーである。企業スポンサーは犯罪組織とギャンブルの匂いを何よりも嫌う。視聴率さえ取れれば、リアルファイトであろうとなかろうと構わない。
 長く沈黙していたプロレスはテレビ向けの健全なエンターテインメントに生まれ変わることによって新時代に完璧に対応した。
 その代表がゴージャス・ジョージである。
 1915年にネブラスカ州セワードに生まれたジョージ・レイモンド・ワグナーは10代の時にプロレスラーを志した。身長175cm、体重97.5kgと体格に恵まれなかったワグナーは、ホンブルグ帽(フェルト製の中折れ帽)をかぶって杖を持ち、スパッツをはいたドイツ兵のヒール(悪役)としてキャリアをスタートさせた。だが10年間必死に努力したものの、全く芽の出なかったワグナーは、遂に前人未到の道を行くことを決意した。
 1948年にロサンジェルスにやってきたワグナーは、リングネームをゴージャス・ジョージと改め、これまでとは全く違うレスラーとして生まれ変わった。
 このリングネームは1920年代に活躍したフランス人ボクサー、ジョルジュ・シャンパルティエに由来している。シャンパルティエはその美貌から”華麗なるジョルジュ(Gorgeos George)”というニックネームをつけられた。ワグナーはシャンパルティエのニックネームをそのまま頂戴し、フランス・ブルボン王朝の貴族のパロディを徹底的に演じた。
 燕尾服と縞のズボンを身につけた礼装の執事が入場口からリングへと続く真っ赤な絨毯を敷き終えると、エルガーの行進曲『威風堂々』のレコードが鳴り響く。入場テーマ曲を使うレスラーなど前代未聞だった。
 もうひとりの執事を従えたジョージが絨毯の上をゆっくりと進む。もともと茶色だった髪はプラチナブロンドに脱色された上に優雅なウェーブがかかり、金色のピンで留められている。
 入場途中、ジョージは観客のひとりにターゲットを定める。多くの場合、それは太りすぎか何の魅力もない女性だ。通路の脇に座る女性の横で立ち止まったジョージは、その女性を上から下まで見回すと、明らかに嫌悪の表情を見せて言う。「おお、これはひどい!」
 彼女の夫もしくは恋人は怒り心頭に発してジョージに殴りかかろうとする。執事は必死に止める。ジョージがリングに上がるまでに、すでに観客席は罵声の嵐だ。
 自らを”蘭のように美しい男(The Human Orchid)”と呼ぶゴージャス・ジョージが蘭の花を持ってリングに上がる。身に纏う豪華絢爛な薄紫のガウンにはレースやフリルがたっぷりとつけられている。
 ゴージャス・ジョージは清潔を愛する。ふたりの執事は絨毯の埃をホウキで払った後、前の試合で戦ったレスラーたちの体臭を消すべく、そこら中に”シャネルNo.10”をふりまく。もちろんそんな名前の香水など実在しないのだが。
 レフェリーが試合前のボディ・チェックを行おうとすると、ゴージャス・ジョージは「その汚い手をどけたまえ!」と命令し、執事はレフェリーの手にまでシャネルをふりかけることになる。
 リングアナウンサーが「華麗なる容姿を持ち、大いなるセンセーションを巻き起こす東西両海岸の人気者、ゴージャス・ジョージ!」とコールする時も、ゴージャス・ジョージは傲然と動かない。対戦相手もレフェリーも眼中になく、観客からの非難の口笛も野次もジョージにはまったく聞こえないようだ。
 だが、試合開始のゴングが鳴り、自慢のプラチナブロンドに相手が触った途端、激怒したジョージは一転して大悪役に変身し、あらゆる機会を見つけては卑怯な反則行為を繰り返す。
 わざとらしい入場パフォーマンスを呆気にとられたまま見ていた観客たちは、レスリングをしようとしないジョージに大ブーイングを浴びせかけるものの、ジョージは委細構わず最初から最後まで反則の嵐。ついには反則負けを食らい、なお傲然と引き揚げていく――。
 バカバカしい入場パフォーマンスへの好奇心、軟弱なコスチュームへの嘲笑、女性を侮辱する無礼への非難、そして反則への激怒。その落差はたちまち暴動に近いほどの興奮を巻き起こした。
 時にゴージャス・ジョージのふくらはぎには火のついた葉巻が押しつけられ、1着2000ドルもすると本人が豪語する薄紫色のガウンは、しばしば群集によって引き裂かれた。
「私を憎めば憎むほど、観客が私以外のレスラーを愛するチャンスが生まれる」と後にゴージャス・ジョージは語ったが、ゴージャス・ジョージを愛する者も憎む者も、同じく入場料を支払って試合会場に群をなした。
 1949年2月、ゴージャス・ジョージの人気は東海岸にまで達した。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにメインイヴェンターとして登場したのだ。この有名なアリーナでプロレスの興行が行われるのは12年ぶりのことだった。
 さらに重要なことは、ゴージャス・ジョージの評判を聞きつけた何千万人もの人々が、新しいメディアであるテレビの前に集まったという事実だ。プロレスはテレビの最初の大ヒット番組となり、その主役こそがゴージャス・ジョージだった。
 1940年代後半から1950年代いっぱいにかけて、ゴージャス・ジョージは大統領よりも有名な存在だった。

(中略)

 最高にバカバカしく、楽しめるプロレス。それがゴージャス・ジョージだった。
 アメリカの新聞はゴージャス・ジョージの出現によってプロレスを完全なショーとみなし、プロレス記事はスポーツ欄から永遠に消えた。
「私がやっているのはショーです」とゴージャス・ジョージが宣言したわけではない。だが、コミカルでおかまチックなゴージャス・ジョージのプロレスがスポーツではなく、エンターテインメントであることは誰の目にも明らかだった。

 ゴージャス・ジョージの全盛期であった1950年代に力道山はアメリカ西海岸で修行時代を送っている。
 全米最大の人気レスラーであるゴージャス・ジョージのことを、力道山はもちろん知っていたに違いない。なにしろ毎日のようにコーンフレークやテレビ受像機のCMに出ているのだから。
 だが力道山がゴージャス・ジョージを日本に招聘することはなかった。
 アメリカ人のあくどい反則攻撃に耐えに耐え、必殺の空手チョップで逆転劇を演じるという力道山のストーリーは、プロレス=リアルファイトという前提の上に成り立っている。敗戦から間もない日本人には、ゴージャス・ジョージがケレン味たっぷりに見せる純然たるエンターテインメントを受け入れる心の余裕などない。そのことを熟知していた力道山は、ゴージャス・ジョージの存在を隠し通した。】

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 著者の柳澤さんによると、テレビ黎明期のまだVTR放送がなかった時代には、「野球中継に比べて必要なテレビカメラの台数が少なく、ボクシングのように1ラウンドKOで早く終わってしまうという危険性もなく、善悪がはっきりしていて白黒テレビでもわかりやすい」という「プロレス中継」は、テレビ局にとって非常に優れたコンテンツだったそうです。終戦後の日本で力道山の試合が盛んに中継されていたのにも、テレビ局側の事情もあったみたいです。

 それにしても、ここで紹介されている「史上最高の人気プロレスラー」ビューティフル・ジョージのパフォーマンスの数々は、この文章を読んでいるだけでも、「実際に観てみたいなあ」と興味をそそられるものではありますよね。たぶん、まだまだ娯楽の少なかった時代のアメリカの人々にとって、ゴージャス・ジョージというのは、「バカバカしく、憎たらしいと思いつつも、なんだか目が離せないような存在」だったのではないでしょうか。
 昔「プロレス大好き少年」であった僕は、タイガー・ジェット・シンやアブドーラ・ザ・ブッチャーの酷い反則攻撃に心から憤り、彼ら「ヒール(悪役レスラー)」が大嫌いだったのですが、今から考えてみると、シンやブッチャーのような「悪役」がいればこそ、善玉レスラーというのは輝くものなのです。本当の「主役」は、「反則ばっかりしてまともにプロレスをやっていないように見える」悪役レスラーのほうで、彼らは、ただ強くてカッコいいだけの「善玉レスラー」よりも、はるかに「試合を創造する存在」だったのですよね。ゴージャス・ジョージの「変身」には、体格にも恵まれず、うだつの上がらないレスラー人生を送っていた男の「一発逆転のための賭け」という面もあったようで、体の大きさやルックスの良さでスターとなることを約束されているレスラーたちよりも、僕にとっては共感できる存在でもありますし。

 視聴者というのは、「応援している」選手を観たい場合だけではなく、「コイツが大嫌い」とか「負けるところを観たい」という理由でテレビのチャンネルを合わせてしまうことも少なくないわけです。亀田がダウンする姿を観るために試合中継にチャンネルを合わせ(そこで亀田がダウンしても疑惑の判定で勝ったりしてしまうのは、「煽り」としてはすごい演出なのかも)、「アンチ巨人」が「巨人が負けるところを見るために」巨人戦を観戦するというのは、けっして珍しいことではありません。

 戦後の日本のプロレス界とその周辺のメディアには、この「純エンターテインメント」の超人気レスラー、ビューティフル・ジョージは「ほとんど黙殺」されてきたようです。プロレス少年である僕は、けっこういろんなプロレス雑誌やプロレス関連本を読みましたが、ビューティフル・ジョージの名前は記憶に残っていません。当時からみても「昔のレスラー」だったからなのかもしれませんが、ビューティフル・ジョージと同世代の「史上最強のレスラー」ルー・テーズの名前は、それこそ飽きるほど聞かされてきたというのに。
 後の日本では、日本人同士でお互いの肉体を削りあうような真剣勝負(風の)『四天王プロレス』のようなものも出てきましたが、そんなふうに「アメリカン・プロレス」と日本のプロレスが違った進化を遂げてきたのには、日本のプロレス黎明期での力道山やメディアの意思が大きかったような気がします。まあ、僕もどちらかというと「真剣勝負っぽいプロレス」のほうが、ビューティフル・ジョージより好きなんですけどね。