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2007年05月17日(木)
アーティストとしての成功と「性格の悪さ」

『自立日記』(辛酸なめ子著・文春文庫PLUS)より。

(辛酸なめ子さんの1999年3月14日の日記から)

【美術予備校の友、Mちゃん、Uちゃんと待ち合わせて、ラフォーレ原宿の多摩美グラフィック科の卒業制作展を見に行った。二人とも30分くらい遅刻。携帯電話の普及に伴い、気がゆるんで遅刻する人が多くなったように思う。でも連絡してくれるだけいいか。卒業するTちゃんのために花を買った。
 タマグラの作品は熱気と野望に満ちていて、会場はかなり熱かった。Uちゃんが、「この中に二人くらい、もう仕事して活躍している子がいるんだけど、その二人ともものすごく性格が悪いんだよ。やっぱり性格が悪くないとやっていけないんだねー」とささやいた。でも、周囲に性格が悪いことがばれている程度では、まだかわいいものじゃない?
 さて、作品の中にとても印象に残ったものがあった。それは、母の一生を写真ボードや手紙などで見やすく構成してあるもので、最初は満州でも幼い頃の写真、青春、出会い、結婚、出産を経て、何と最後はお母さんがお棺に入れられて、白装束をまとっている亡骸の写真で終わっている。途中、がんセンターの診療費の領収書も貼ってあって泣かせる。その近くに顔がそっくりの若者がいたので、彼が作者で息子なのでしょう。騒々しい中、その空間だけは人々が立ち止まり、じっくりと見ていた。ちょっと反則な気がしたけれど、わりと感動しました。Tちゃんの作品も、彼女らしくて良かった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこの「作品」って「反則」じゃないかと思うんですよね。でも、もしこの会場にいたら、やっぱり目を奪われてしまうだろうし、感動してしまうのではないかという気もするのだけれど。
 これを読んでいて僕が考えたのは、「お母さんは、こうやって自分の一生が息子の『作品』にされてしまうことを、どう思うだろう?」ということでした。もちろん、お母さんは亡くなられているのだから、そんなことわかりようもないし、科学的には死者には気持ちなんて無いのかもしれません。でも、やっぱりそれを想像せずにはいられなかったのです。
 「自分の一生をこうして記録に遺してくれて嬉しい」のだろうか、それとも「恥ずかしいけど、息子の出世のためならしょうがない」のだろうか、それとも「公衆の面前でプライバシーを暴露されるなんて不愉快極まりない」のだろうか?

 この手の「アート」は、発想としては珍しいものではありません。アラーキーこと写真家・荒木経惟さんも、写真集『冬の旅』で、死に向かっていく妻・陽子さんの写真を遺し、出版していますしね。
 でも、「多くの人が思いつく発想」だからといって、それを「作品」として世に問うのには、よほどの「信念」や「勇気」が必要なはずです。「その写真を公開されることを、自分の大事な人は望んでいるのだろうか?」なんて、そんなの、本人にしかわからないはずです。
 そう考えると、やはり「こういう作品を思いつく」ことと「実際に制作すること」、そして、「みんなの前で公開すること」の間には、それぞれ、かなり高いハードルがあるのではないかという気がするのですよ。赤の他人に「お棺に入って白装束をまとっている自分の亡骸」を公開したい人って、そんなにたくさんいるとは思えないし。

 「活躍する人は性格が悪い」と言い切ってしまうのには問題があるのかもしれませんが、こういう作品のことを考えると「アーティストとして活躍し、インパクトがある作品を世に出すには、ある種の「傲慢さ」や「自分の周囲の人を犠牲にすることを厭わないくらいの覚悟」も必要なのでしょうね。