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2007年05月07日(月)
「補修する布は、もとの布より少し弱くなくてはいけない」

『物語の役割』(小川洋子著・ちくまプリマー新書)より。

【同じく河合(隼雄)さんは、『ココロの止まり木』という本の中で、京都国立博物館の文化財保存修理所を見学した折、欠けた布を修復する際に補修用の布がもとの布より強いと、結果的にもとの布を傷めることになる。補修する布はもとの布より少し弱くなくてはいけない、という話を聞き、カウンセリングという自分の仕事に似ていると感じた、と書いておられます。補修する側が補修される側より強すぎると駄目なのです。
 物語もまあ人々の心に寄り添うものであるならば、強すぎてはいけないということになるでしょう。あなた、こんなことでは駄目ですよ。あなたが行くべき道はこっちですよ、と読者の手を無理矢理引っ張るような物語は、本当の物語のあるべき姿ではない。それでは読者をむしろ疲労させるだけです。物語の強固な輪郭に、読み手が合わせるのではなく、どんな人の心にも寄り添えるようなある種の曖昧さ、しなやかさが必要になると思います。到着地点を示さず、迷う読者と一緒に彷徨するような小説を、私も書きたいと願っています。
 レイモンド・カーヴァーは「書くことについて」(『ファイアズ(炎)』収録)というエッセイの中で、
「作家にはトリックも仕掛けも必要ではない。それどころか、作家になるには、とびっきり頭の切れる人間である必要もないのだ。たとえそれが阿呆のように見えるとしても、作家というものはときにはぼうっと立ちすくんで何かに――それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない――見とれることができるようでなくてはならないのだ。頭を空っぽにして、純粋な驚きに打たれて」
 この一文に出会った時、私は子供の頃読書から得た、二つの矛盾しながら共存する思いを蘇らせました。ぼうっと立ちすくんで、夕日や古靴を眺める。それはまさに自分が世界の一部分であることの確認です。そして、純粋な驚きに打たれる時、私はその驚きを自分だけに特別に授けられた宝物として受け取ります。そうして、そこから小説を書くのです。】

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 作家・小川洋子さんの「物語の役割」についての講演の一部です。もちろん、これを読んで、「トリックも仕掛けもない作品なんて、面白くもなんともないんじゃないか?」と思う人もおられるでしょうし、ある種の「極論」というか「理想像」なのかな、という気がします。でも、この小川さんの話を読んでいると、少なくとも、本ばかり読んでいて頭の中で空想ばかりしていた僕という子供は、「物語に逃げていた」というよりは、厳しい現実のなかで生きていくにあたって、「物語に守られて成長することができた」のだということがわかりました。「本ばかり読まずに、現実に目を向けるべきなのでは」というようなことを僕は自分自身に問いかけたりもしていたのですが、あの頃の僕が、脆い心で現実に正面から立ち向かっていたら、ここに、こうやって存在していられたかどうかは非常に疑問です。

 世の中には「自分を引っ張ってくれるような、強い物語」と必要としている人だって、たぶんいるのではないでしょうか。でも、多くの傷つきやすい、弱い心を抱えた人たちにとっては、「強い物語」は、「そんなふうには生きることができない自分」を際立たせる存在なのかもしれません。「完璧すぎる親」や「完璧すぎるカウンセラー」が、子供や患者さんたちをかえって追い詰めてしまうことがあるように。
 むしろ、「なんだこのスッキリしない結末は……」というような緩やかな「物語」のほうが、結果的には人の心を解きほぐしてくれる場合もあるのですよね。

 『物語の役割』というのは、「自分が世界の一部であるということの確認」であり、また、「自分が世界で唯一無二の存在であることの認識」だと小川さんは仰っています。そして、これはまさに「自我の形成」そのものです。
 本当は、「物語」を必要としないで生きていければ、それがいちばんラクなのかもしれません。でも、生きていくっていうのは、そんなに簡単なものではないんですよね。そして、「弱いからこそ与えられる強さ」というのも、きっとあるのだと思います。