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2007年04月29日(日) ■ |
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「あの、フツーの苗字ないんですか?」 |
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『待っていてくれる人』(鷺沢萠著・角川文庫)より。
(鷺沢さんの友人が本屋に電話で注文をしたときの話)
【彼女の名前は崔である。日本語読みすれば「サイ」だが韓国語読みすれば「チェ」である。在日韓国人が通名を使うか、本名を「日本語読み」したことを使うか、それとも「韓国語読み」したものを使うか、それは本人の自由である。本人がいちばん好きなもの、あるいは使いやすいと思うものを名乗ればいい。そんなにもあたり前なことを、この島ではいちいち言ったり書いたりしなければならないのはまったく情けないことだが、今はその話は措いておく。 彼女は自分の意志で選択した名前を名乗り、自分の意志で選択した発音を使っている。崔姓を「韓国語読み」した「チェ」である。だから名前を訊いた書店の店員に対して、「チェです」と答えた。 応対した書店の店員は、「は?」と訊き返した。日本人にとっては聞き慣れない苗字であろう。彼女も名前を訊き直されることには慣れっこであるので、ごくふつうに言った。 「チェです。カタカナでいいんです。『チ』に小さな『エ』で『チェ』です」 小学生にも理解できるであろうそのような平易な説明をした彼女に対して、しかし店員はもう一度「は?」と言った。彼女は心の中でだけ溜息をつきながら、次はこう説明した。 「チューインガムの『チュ』の小さな『ユ』の部分を『エ』に変えてください。『チェ』です」 この説明で「チェ」の発音を理解できない者などいないであろう。少なくとも「母国語として」日本語を使っている者であれば。しかし店員は、次には「は?」の代わりに以下のような台詞をのたまったという。 「あの、フツーの苗字ないんですか?」 そのような無神経な台詞を投げつけられた友人は、しかし私に向かってはあくまで明るく笑いながら話を続けた。 「『フツーの苗字』って、なんだろうね? オンニ」 フツーの苗字って、なんだろうね? この一行に、この島の抱え続けている問題がみっちりと詰まっている。少なくとも私にはそのように思える。】
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この店員は、聞き慣れない「苗字」を耳にして、からかわれていると思ったのでしょうか? 今だったら、崔洪万(チェ・ホンマン)という有名なK1ファイターがいますので、こン菜ことにはならなかったのかもしれません。でも、もしこの電話の相手がいかにも日本語を話すことに慣れていなさそうな「外人」っぽい人であれば、きっとこの人は「フツーの苗字ないんですか?」なんて失礼なことは言わなかったと思うのです。
少なくとも、この電話でのやりとりからは、「書店の人をからかっている」ような印象は受けませんし、この書店員の対応は接客態度として間違っていることは言うまでもないのですが、ひとりの人間として、「他人の名前をバカにすること」というのは、本当に情けないことです。
僕の名前は外国人にとっては読みにくいようで、とくに英語圏では(というか、そもそもフランス語圏やロシア語圏には行ったことないですが)名前を呼ぶときに、みんな四苦八苦しているのがよくわかります。しかしながら、彼らは僕の名前をぞんざいに扱うことはありません。読み間違えられたり、何度か呼びなおそうとしてうまくいかず、困惑の苦笑いを向けられたりすることはあるのですが、それでも、表面上名前をバカにされた経験はないのです。もちろん、彼らも控え室に戻れば「ヘンな名前!」とか言って仲間内の笑い話にしている可能性はありますが、まあ、そこまで想像するのも不毛ですから。 それはさておき、人間にとって自分の名前をバカにされるというのは、とても悔しくて悲しいことなのです。それだけは間違いありません。幼稚園児だって、自分の名前をからかわれたら怒ります。自分の名前からは、そう簡単には逃げられませんし。
この店員だって、自分が同じように名乗ったときに「フツーの苗字ないんですか?」と言われたら怒るはずです。でも、そんな想像は今までしてみたことがないのでしょう。あるいはアメリカで目の前の人に自分の名前をジョークのネタにされても、曖昧な笑顔をふりまき続けるのでしょうか? この店員が「訊いたことがない苗字を名乗られてからかわれているのかと思った」のか、「在日韓国人だとわかって、日本人風の『通名』があるはずだと判断して聞いた」のかはわかりませんが(僕はたぶん前者だと予想していますが)、悪意がなくても、いや、悪意がないならなおさら、「同じ日本人として」悲しくなる話です。この書店員個人の問題なのかもしれません。でも、この崔さんの「手際良さ」を考えると、こういうのは在日韓国人たちにとって「非常に珍しい経験」ではないのでしょうね、きっと。
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