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2006年11月02日(木)
「意味不明のお経」を皆の前で唱える意義

「吾輩ハ作者デアル」(原田宗典著・集英社文庫)より。

(「声という不思議」というエッセイの一部です。ここ数年、自分で朗読をやるようにもなって、”声”や”音”についての興味が湧いてきたという話の続き)

【そうやって改めて考えてみると、人の声というのはなかなかどうして面白い。へえ、と感心するような逸話も数多い。
 例えばもう5、6年前だったろうか、勝新太郎の最後の舞台で共演した役者から、こんな話を聞いたことがある。公演中の或る日、楽屋で勝新太郎が、
「おい、お前……客っていうのはアレ、何を聞いてんのか分かるか?」
 と唐突に尋ねてきたのだという。返答に詰まっていると勝新はこう言ったという。
「客はな、役者の台詞なんざ聞いちゃいねえんだ。アレはな、声を聞いてんだ――音を聞いてるのよ」
 なるほどなあ、とその役者は感心したそうだが、又聞きした私も感心した。そういう持論があるから、勝新は舞台上で時折わざと聞き取りにくい小声で、囁くように台詞を言っていたという――意味はわからなくても、歌うようなその台詞回しに、観客は酔っていたらしい。
 また昨年のことだったが、或るお坊さんにお経を唱える意義について尋ねてみたことがある。まったく内容の意味がわからないお経を、皆の前で唱えるのはどうしてなのか、と率直に聞いたのである。するとお坊さんは何でもないことのようにこう答えた。
「あ、お経はね、別に意味は分からなくていいんです。大事なのは声、音ですね。お経が聞こえる範囲に”音の空間”ができるでしょう? その空間の中に一緒にいる、ということが重要なのです」
 へえ、と私は感心しきりだった。まことに声というのは、奥深いものだと再認識した次第である。】

〜〜〜〜〜〜〜

 なるほど、「お経の意味」よりも、みんなで集まって、あの「お経という音」に包まれた空間を共有していることのほうが大事なのだ、ということなのですね。もちろん、全国のお坊さんがこれと同じ考えであるとは思えませんし、これは、あくまでもひとつの「考えかた」でしかないのでしょうけど。
 ただ、お経の意味なんて全然わからない僕にとっても、たしかにお経が流れている場にいると、普段は忘れていたいろいろなことを思い出したり、内省的な気持ちにはなるんですよね。習慣というのはもちろんあるのでしょうが、「お経というBGM」というのは、非常に大きな影響力がありそうです。
 まあ、お経があまり長くなってしまうと、「あ、足がしびれて……」というような物理的な苦痛に負けてしまいそうになるのですが。

 「新世紀エヴァンゲリオン」というTVアニメがあって、僕は最近そのDVDをまとめて観たのです。観ながら何度も感じたことは、「何これ?えらい聞き取り難い小声の台詞がたくさん入ってるな……」ということでした。
DVDであれば、巻き戻して聴きなおせばいいわけですが(実際にはあんまりたいしたことを言っているわけじゃない台詞がほとんどでした)、TV放映のときって、ああいう「聞き取り難い台詞の多さ」にクレームがつかなかったのだろうか?と疑問になったくらいです。
 でも、勝新さんの「持論」によれば、大事なのは「誰かが小声で喋っているという空間」であって、何を喋っているかには、そんなに意味はなかったのかもしれません。そして、観ている側にとっては、いくら聞き取りやすくても、ニュースのように同じ調子で淡々と喋られるよりも、小声でボソッと喋られたほうが、かえって「今、何を言ったんだ?」と興味を引かれることも事実ですし。
 僕はときどき、福山雅治さんが日曜日の夕方にやっているラジオを聴きながら「下ネタとかもさらっと言っちゃう福山ってカッコよくて親しみやすくって、なんだか同じ男として憎たらしいくらいだよなあ」などと黒い嫉妬に駆られるのですけど、実は、「下ネタやエロトークも福山雅治の声や喋り方だから許されている」だけなのかもしれませんよね。僕が同じことやったら、単なるエロオヤジだものなあ……

 「面白いことを喋れない」と思い込んでいる人は多いけれど、本当は、「喋り方が面白くない」場合が、けっこうあるのかもしれませんね。