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2006年10月31日(火) ■ |
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昭和天皇は、「ロックンローラー」だった! |
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「週刊SPA!2006.8/15・22合併号」(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ』」第203回より。
(終戦後の昭和天皇の「ご巡幸」について)
【福田和也:記録映像に残っている、戦後の広島に行幸したときの昭和天皇は凄いよね。本当に神々しくて、まだ焼け野原で何も建っていないところにさ、バーと群集が集まってきて。
坪内祐三:神々しいしさ、ちょっとロックンロールしてるよね。
福田:戦前の天皇は堅苦しい存在で、白い馬に乗って軍服着たような写真でしか見ることができなかったわけだから。
坪内:天皇のイメージを固定するために国民には「御真影」という写真だけを見せて、生身を見せないようにしていたんだよ。それが戦後、「生で出るぞ」というかライブで行くぞと。そのライブのノリの、あの昭和天皇のロックな感じがスゴイんだ。
福田:昭和天皇が全国を行脚した「ご巡幸」って、最初は地方のライブハウスにちょっと行くみたいに横浜の小さな工場なんかに行きながら、国民の反応がいいから、ちょっと一発大きな所でやるかというので、広島に行ったりね。
坪内:炭鉱のオヤジみたいな帽子をかぶってみたり。
福田:あれは北海道かな、どこかの製鉄工場に行ったときは、やっぱり組合が強かったんだろうね。天皇の頭上に鉄骨をガーッと走らせてみたり、いろんなことをして……ひとりの労働者が、警備やおつきの人間を押しのけて天皇の面前に現れて「陛下、握手を」と言ったら、昭和天皇は「いや、日本人だから、挨拶をしよう」とお辞儀で切り返したり。
坪内:カッコいいよね。天皇って、戦後、ものすごく一般の人たちと近づいたんだよ。なのに敗戦から7〜8年で、もう距離が出はじめちゃって。それに対して、天皇の侍従長だった入江相政が昭和28年の『文藝春秋』に批判を書いたよね。「天皇をまた雲の上に乗せるのは誰だ」と。
福田:昭和天皇はあれだけ強力な人だから、吉田茂のような人間なら大丈夫だけど、ほかの政治家ならカシコまって、かえって戦前よりも天皇が神聖っぽくなっちゃうでしょ。
坪内:昭和天皇って1901年生まれだから、戦争が終わったとき44歳なんだよ。つまり、今の福田さんやオレより若いんだ。だから、焼け跡の戦後日本でロックンロールしていくわけですよ。】
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「第26回全国豊かな海づくり大会」に列席されるために、天皇・皇后両陛下が佐賀県をご訪問されたというのを昨日の夜のテレビのニュースで観ました。そのニュースでは、「地元の有名なお祭りの山車が勢揃いしているなか、祭囃子の演奏に耳を傾けられる両陛下」や「地元の窯元を視察される両陛下」のご様子が流れていたのですが、僕はそれを観ながら、やっぱり天皇っていうのは大変だなあ、と感じたのです。両陛下は、おふたりでまっすぐに立たれたまま祭囃子を聴かれていたのですが、ああいうのって、よっぽどの好事家じゃないと、辛そうだな、と。いや、昔「ハンマープライス」とかで、「有名ミュージシャンがあなたひとりのために熱唱!」とかいうのがありましたけど、実際にその場に自分がひとりで立っていたら、目の前にいるのがいくら大ファンのミュージシャンでも、なんとなく居心地が悪いというか、どうしていいかわからないものなのではないかな、というような気がします。ひとりでノリノリに踊りまくるわけにはいかないだろうし、さりとて、黙って腕組みしながら聴いているわけにもいかないだろうし。祭囃子というのは、人波にもまれながら遠くに流れているのを聴くことに風情があるのであって、目の前で演奏しているのを直立不動で聴いているのは、けっこうキツイのではないかなあ、と。窯元での「説明」というのも、よほど興味があれば面白いのかもしれませんが、興味がないようなジャンルの視察でも皇室の方々というのは、「さっさと切り上げて、帰ってビール飲もうぜ!」というわけにはいかないだろうし。
僕の子供の頃の天皇制へのスタンスは、「あんなふうに生まれつき偉くて、年間何千万円もお金が貰える人がいるなんてズルイ!」だったのですが、それからが年を重ねるにつれ、「好きなときにファミコンもできない不自由な人たち」というような見方になったり、「紀子さんはかわいいなあ!」になったりしていました、今の時点では、「皇族というのは別に幸福でも不幸でもない、『ああいう存在』であるだけなのだ」という感じです。僕自身が、ある面では幸福で、ある面では不幸であるのと同じように、ああいう存在であることへの恍惚と不安みたいなものが、たぶん皇室の人々にもあるのだと思いますし、それは、他人があれこれと簡単に解釈できるようなものではないのでしょう。
現代に生きている僕にとっては、「のどかな風景」に見える「ご巡幸」の光景なのですが、この文章での坪内さんと福田さんの話を読んでみると、このような行事がはじまった当時は、むしろ、すごくピリピリとしたムードだったみたいです。太平洋戦争後も昭和天皇は「国民的大スター」であり続けたのと同時に、「反天皇制」の人々からは、まさに「目の敵」にされており、不特定多数の国民の前に直接姿を現すというのは、非常に危険な行為でもあったはずです。実際に嫌がらせのようなことをされたり、突然目の前に暴漢(と言い切ってしまうのは問題かも)が出てきたりもしています。それでもあえて国民の中に切り込んでいった昭和天皇というのは、確かに「ロックンローラー」だったのかもしれません。命が惜しければ、皇居の中に篭っていて、参賀のときだけベランダから顔を出すくらいでも、誰も咎めなかったはずなのに。
巡幸先で突然握手を求められたときに【「いや、日本人だから、挨拶をしよう」とお辞儀で切り返した】なんて話を読むと、昭和天皇というのは、肝が据わっていて、しかも機転が利く人だったのだなあ、とあらためて感心してしまいます。この場合、あっさり握手に応じていれば鼎の軽重を問われることになったでしょうし、逃げまわったらみっともない。そして、周りの人がとりおさえたりしたら、「人間天皇」らしくない。いきなりそういう状況に置かれたら、普通は、動転してしまうはずです。それが、「昭和天皇のもともとの素養」によるものだったのか、「帝王学の研鑽の賜物」だったのかはわかりませんけど。 今も皇室の人たちが多くの国民から愛されているのは、戦前の「現人神」の影響を引きずっているだけなのではなくて、むしろ、戦後の「ライブツアー」の力が大きいのかもしれませんね。それにしても、しっかり警備されているとはいえ、こんなに数多く「ご巡幸」されているにもかかわらず、大きな暗殺未遂事件なども起こっていないというのは、凄いことだよなあ。
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