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2006年09月19日(火) ■ |
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「敷居の低い人」として生き残るという戦略 |
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「マンガ入門」(しりあがり寿著・講談社現代新書)より。
【自分がサラリーマン時代にクリエイターに何か発注する時考えたのは「敷居の高い人に発注するか?」「敷居の低い人に発注するか?」でした。 パッケージやポスターにはいろいろなデザインの仕事があります。全てが誰も見たことのないようなオリジナリティとクオリティをかねそなえた立派なものである必要はない。バリエーションでいいもの、サイズ対応でいいもの。ある程度保守的な市場向けで逆に個性的すぎるデザインはリスクが高いもの。そういった仕事が案外多い。 それらはいわゆる「センセイ」とか「アーティスト」ではなく、普段いっしょにお酒を飲むような、ギャラもそんなに高くなく、スケジュール的にも無理を聞いてくれて、しかもデザインを改悪するようなスポンサーサイドの事情もくんでくれるような、そういった、「敷居の低いデザイナー」にお願いすることがほとんどでした(もちろん、腕は確かな人たちです)。 逆に、商品の新発売時のキービジュアルになるような作品や今後のイメージ作りの基礎になるような重要なアイテム、なんとしてもその新鮮さで他社製品より、一歩抜きん出て、市場への浸透をはかりたい時などは、力があって有名でギャラも高く、個性的でアーティスティックな、いわゆる「敷居の高いデザイナー」に依頼します。 もちろん力もあって敷居の低い人もたくさんいましたが、発注するデザインの目的によって、なんとなく大きくその2つに「デザイナー」を分けていたような気がします。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも大切です。 さて、それをマンガにあてはめてみた場合、「自分は敷居の低い人」になるか、逆に「敷居の高い人」になるのか? そんなことを考えました。会社を辞めるにあたって有名なデザイナーからアドバイスを受けました。 「やりたいことだけやったほうがいいよ」 と、つまり自分のやりたいことだけやっていれば、仕事の質も上がるだろうし、それで認められれば、そういった自分がやりたい類の仕事ばかりくるようになって、さらにその人のイメージを確固たるものにし、評価も上がり、いわゆる「敷居の高い人」になれる、と。 なるほどそれはいい。たしかにそうなれればいいな、と思いました。
しかし自分には決定的な問題点がありました。「やりたいもの」がハッキリしないのです。 やりたいものがないわけじゃない。でもアレもコレも描きたい。ギャグもシリアスも描きたい。「やりたいもの」がわかりやすくひとつにまとまらないし、それによってイメージが固定されて、一種類の仕事しかこないようになったら、つまらないな、と思うのです。 そのうえ、ボクはそこに至る間、若気の至りで反オリジナリティみたいなものをかかげ、パロディを中心に描いていたせいで、すでにもう充分ワケがわからなくなっている。いったいここからどうイメージを収斂していけるだろうか? 長いサラリーマン生活の中で、一人のタレント、あるいはひとつのイメージともいうべきものが現れ、大きく評価されたかと思うと、数年後にあきられてゆくケースをいくつも見てきました。あきられてからのイメージチェンジは、昔のイメージにひきずられ、非常にむずかしそうに思えます。 もちろんひとつのスタイルを築きながら、それがひとつの時代の顔になり、常にトップを走り続けるアーティストもいます。しかし、自分がそれになれるとは到底思えなかった。 ボクは「しりあがり寿」をどうしたかったのか、その時点で最大の願いは、マンガ家としてなるべく長く描き続けること、そしてその時その時に自分の描きたいものを自由に描き続けることでした。 そんなことを考えると、どんどん自分のやりたいことをしぼるというのが難しく思えてきました。 その結果たどりついたのは、「敷居の低い人」になって仕事は「何でも受ける」ということでした。きっと何でも受けていれば、自分がダメな分野の仕事はこなくなって、自然に仕事の幅が収斂してゆくだろう。逆にいつまでもいろんな仕事がくればそれでいいじゃないか、と思うようになりました。 しょせん、仕事は相対的なものです。自分がいくらガンバっても同じ分野にもっと才能のある人がいたら、自分には仕事はこない。とにかくいろいろやってみれば、そのうちライバルがいない自分を活かせる分野の仕事が自然と多くなるでしょう。 それに「敷居の低い人」の条件では、「ちゃんとシメキリは守る」とか「内容にワガママを言わない」とか「電話はちゃんと応対する」とか、サラリーマン的なものが必須です。これなど13年サラリーマンをやった自分にはうってつけです。しかも特にイラストやカットなどその場その場にどう適したものを素早く描くか、というような視点も会社のころさんざんやってきて、あまり苦にならない。 そしてなによりも、食えなくなることのコワさが先に立って、ボクは「しりあがり寿」にどんな仕事でも受けさせるようにしました。】
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もちろん、しりあがり寿さんに全く「才能」がなければ、プロのマンガ家として生き残ることはできなかったと思います。でも、この「食っていくための戦略」というのは、すごく勉強になりました。 専門職の場合はとくに、「ナンバーワン」になりたい、それがムリなら「オンリーワン」として認められたい、という気持ちは誰にでもあるのではないでしょうか。しりあがりさんの言葉を借りれば「敷居の高い人」として、「この仕事はこの人にしかできない」と周囲に認めさせたいのです。でも、実際のところ、多くの「専門職」でさえも、「この人にしかできない仕事」というのはほとんどありません。仕事の大部分は、「その資格がある人なら、誰にでもできるもの」なのです。まあ、そうでないと「資格」の意味がないですよね。 実際に仕事をしていると、「これは自分の専門じゃない」とか「こんな仕事、他の人のほうがうまくできるはずなのに」という場合ってけっこう多いのです。「なんでこの仕事を僕のところに回してくるんだ……」と、「仕事の押し付け」に対して不快になることも少なくないのです。そして、「これは自分の仕事じゃない!」って、周囲に自分の「専門性」をアピールしたくなることもしばしばです。 しかしながら、「仕事を頼む側」の立場で考えると、できれば「敷居の低い人」に頼みたくなるのが人情というものでしょう。「敷居の高い人」に頼むのはコストがかかる場合がほとんどですし、「そんなの俺の仕事じゃない!」と怒鳴り返してくるような人に頼むよりは、それほど高い技術を持っていなくても「ああ、いいよいいよ」と快く引き受けてくれる人のほうが頼みやすいのは間違いありません。いやまあ、どうしてもその人じゃなければダメ、ならともかく、実際は、プライドほどの「専門性」を持っている人はごくわずかなんですよね。ごくごく一部の頂点を目指す人以外にとっては、「生きていくための手段」として「敷居の低い人になる」というのは、非常に有効なのではないかと思います。「なんでもやる人」というのはバカにされがちだし「結局は何もできないのと同じ」なんて揶揄する向きがあるのも事実ですが、「敷居の低い人」というのは、やっぱり重宝されるんですよね。少なくとも「プライドばかり高くて何もやらない人」よりは、「そんなに凄いことはできないけれど、人が嫌がる、あるいは面倒くさがる仕事を気軽に引き受けてくれる人」のほうが、現場では役に立ちます。もちろん、全く何もできないくせに口や手ばかり出してくる人では、どうしようもありませんが。 まあ、大きな組織の中では、あまりに「敷居が低すぎる人」は、かえっていろんなものをなすりつけられてパンクしてしまうリスクがあるし、専門外のところに深入りしすぎて失敗し、「できないことを引き受けるな!」なんて責められてしまうこともあるので、「敷居の低さの匙加減」というのも、けっこう難しいものではありそうなのですけどね。
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