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2006年08月31日(木)
「私はモニターを通してはできない」

西日本新聞の記事より。

【「夜回り先生」として知られる元横浜市立高校教諭の水谷修さん(50)が、27日に宮崎市のホテルで開かれた「第54回日本PTA全国研究大会みやざき大会」で、会場設営への不満から「私はうそつきは嫌いだ」などと大会事務局を批判後、予定していた講演を突然キャンセル。約8400人が集まった会場が騒然となった。

 同大会実行委によると、水谷さんは同日午前11時から「さらば、哀(かな)しみの青春」と題して約1時間半の講演を予定。3300人収容のメーン会場のほか近隣に2会場を用意、各会場をモニターで結んで中継する予定だった。だが、26日深夜になって水谷さんから「会場を分けるとは聞いていない。契約違反だ」「聴衆に直接話し掛けないと私の話は伝わらない」などと、電話で講演中止を伝えてきたという。

 実行委は講演直前まで説得。水谷さんはいったん登壇したが、「私はモニターを通しては(講演が)できない」などと発言。「今日は申し訳ありません」と謝ってステージを下り、タクシーで会場を後にしたという。

 月野健一郎実行委員長(宮崎県PTA連合会副会長)は「会場を複数用意するというのは事前に何度もファクスなどで通知し、了承をもらっていたと思っていた。一方的にうそつき呼ばわりされ心外だ」と話す。宮崎市内のPTA役員の男性(50)は「直接の話し掛けにこだわるなら、なぜテレビに出るのか。遠方から休みをとって来た人もいるのに」。広島県からバスで来た女性も「これだけ大勢の人がいるのに…。教育者としてあんまりです」と話していた。

 西日本新聞は、出版社を通して水谷さんへの取材を申し込んでいるが、連絡が取れない状態。

 水谷さんは2004年に横浜市を退職。現在は少年非行問題に詳しい教育評論家として全国で講演活動などを行っている。】

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 最初にこのニュースを読んだときには、「なんで?」と思いました。だって、「夜回り先生」は、本を書いたり、マンガになったりもしているのだし、テレビにだって出演しているのだから。御本人は、「ライブのつもりで話を聞きに来たのに、モニター中継だったらお客さんにウソをついたことになる」と仰っておられたそうですが。まあ、確かにそれはそうなのですけど、「入場料」を取ってのイベントでなければ、満員で会場に入れなかった人たちは、「モニター中継でも話を聞いてみたい」と思うのが普通ではないでしょうか。僕は最初、この話を聞いたとき、「まさか、あんまり一度にたくさんの人に話を聞かせると、今後の講演が売れなくなるからなのでは…」とか「ギャラアップのためにゴネたのでは?」などという、黒い想像をしてしまいました。「夜回り先生」は、ボブ・サップじゃないんだから、実際は運営側との「見解の相違」に尽きるのでしょうけど。でも、このイベントを企画・運営していた人たち、あるいはこの講演を楽しみにしていた人たちが、かなり失望したことだけは間違いないでしょう。なんとか落としどころが見つけられればよかったのだけれど……
 この件に関しては、どちらが正しいのか(あるいは、どちらも正しかったり、正しくなかったりするのか)というのは、お互いの言い分が錯綜しているところがあって、なんとも言えない面はあるのですけどね。

 ところで、僕がこの話について考えさせられたのは、「モニターを介すること」によって、どういう影響があるのだろうか?ということでした。
 僕はときどき舞台とかコンサートを観に行くのですけど、やっぱり、その「現場」にいるというのには、大きな価値があるものなのだなあ、と感じることが多いのです。それは、「音圧」というような物理的な刺激においてもそうですし、その場の「空気感」という点においてもそうです。演劇で言えば、テレビやビデオでの「演劇中継」というのは、正直あんまり面白く感じられないことが多いのです。それは、その場にいることの「緊張感」が無いこととか、カメラがあらかじめ選んだ「ひとつの視点」でしか観られないということとか、周囲の観客の反応が伝わってこないこととか、いろんな要因があるように思われます。劇場で舞台を観ていると、テレビで「中継」を観ているよりよっぽど疲れるのは、それだけ「観ることに集中できる環境」であるということの裏返しなのでしょう。
 映画にしても、『タイタニック』ですら、居間でお菓子をボリボリやりながらゴロンと横になって観ていれば(そして、いいシーンで携帯電話が鳴ったり、宗教の勧誘の人が家のチャイムを鳴らしたりするのですよこれが)、真っ暗で張り詰めた空気で満たされている映画館で観るよりは、はるかに「感激度」は違うはずです。確かに、何かを伝えようとするときには、「観る側の環境」っていうのは、かなり大きな影響があるんですよね。
 ですから、この「夜回り先生」の講演だって、御本人がおられる講演会場では、それこそ咳払いをするのもためらわれるような雰囲気なのかもしれませんが、モニター会場では、聴衆も多少はリラックスして話を聞くことにはなるはずです。どんなに広い会場であっても、現場にいる人たちよりは、モニター会場にいる人たちのほうが、「伝わりにくい」のは間違いなさそうです。そして、「夜回り先生」は、「モニター越しにポテトチップを食べながら話を聞いている人たち」に傷つけられた経験があるのかもしれません。もともと「現場で子供たちに接する」ということに重点を置いて活動してきた人ですし。
 その一方で、「直接話すこと」にこだわるのだとすれば、かなり効率が悪いことも事実です。テレビ番組に出演すれば、一度に1千万人の人に語りかけられるのに、同じだけの人に「直接話す」ことにこだわるとするならば、東京ドームを200回くらい満員にしなければなりません。それは、現実的にはまず不可能なことです。

 正直、僕はこの話、けっこう気になるんですよね。「夜回り先生」は、ひょっとしてものすごく体調が悪いのでは?とか、ストレスで精神的に不調なのでは?とか想像してしまって。
 「夜回り先生」は、最初の頃は、「たとえ誤解されることがあったとしても、自分が聞いた子供たちの声を世の中に届けたい」と考えて、本を書いたり、テレビに出演したりしていたはずです。
 でも、この話からすると、先生は、「誤解を覚悟で多くの人に語りかける」よりも、「誤解を少なくするために、語りかける相手や状況を選ぶ」ようになってしまっています。
 これは、「何かを伝えようとする人間」にとっては、かなり重大な「変質」なのではないかと、僕には思えるのですが……