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2006年03月29日(水) ■ |
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姉歯元建築士への「糾弾」と「同情」のあいだに |
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産経新聞の記事より。
【耐震強度偽装事件で、建築基準法違反容疑で警視庁などの合同捜査本部による家宅捜索を受けた姉歯秀次元建築士(48)の妻(49)が二十八日早朝、千葉県市川市の自宅近くで死亡しているのが見つかった。現場や自宅から遺書などは発見されていないが、千葉県警行徳署は状況から、付近のマンションから飛び降り自殺したとみている。妻は病気のため精神科に通院していたという。 同日午前五時三十五分ごろ、市川市富浜のマンション(七階建て)駐車場に止めた車の中で、血を流した女性が倒れているのを所有者の男性(44)が発見した。 女性は病院に運ばれたが、全身を強く打っており、午前七時過ぎに死亡を確認。同署の調べで、姉歯元建築士の妻と分かった。】
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本当に痛ましい話です。姉歯氏は、「病気がちの妻が当時、入退院を繰り返していた。断ると収入がゼロになるということで葛藤した」と「偽装の理由」を話してたということもあり、この一報で悲嘆にくれているのではないでしょうか。こんな結果になるのならば、なぜ、あんなことをしてしまったのか?と。 もちろん、病気の妻のためとはいえ、住人の生命と財産に深刻な影響を与える「耐震偽装」なんて暴挙をやってもいいはずがありませんが、この事件には、「普通の人でも、ちょっと魔がさしたり、厳しい状況に追い詰められれば、とんでもないことをやってしまうことがあるのだ」ということをあらためて考えさせられました。少なくとも姉歯氏は、「生まれつきの極悪人」って感じではないものなあ。本当にそんな人がいるのかどうかはさておき。
以前、鳥インフルエンザの発生を知りながら国に報告をしていなかった浅田農産の会長夫妻も自ら死を選んでしまいました。確かに彼らは「責任者」であり、国民の健康に対して重大な影響を与えるかもしれない「隠蔽」をしたのですから、世間やマスコミから糾弾されるのはやむをえない面はあると思います。でも、その一方で、実際に亡くなられてしまうと、「自業自得だ!」なんて決め付ける気持ちにはなれなくて、「あんなに責めなくてもよかったのではないか」とか、つい考えてしまうのですよね。 しかし、現実問題として、あのような「人の命にかかわるような問題」を、「相手が自殺しないように、手加減しながら糾弾する」というのは、ものすごく難しいことでしょう。だからと言って「罪を問わない」わけにもいかない。言葉は悪いけど、彼らの死が、「自分たちも同じようなことをしたら、社会から抹殺されてしまう…」と人々に思わせる、「見せしめ」として作用しているんも事実ですから。 浅田農産の会長夫妻だって、あの事件がなければ、そんなに積極的に悪事を行うような人ではなさそうだったんですけど。
このような事件が起きると、手の平を返したように「そこまで姉歯氏の妻を追い詰めたのは誰だ?」という犯人探しが始まります。悪いのは、姉歯氏に偽装をもちかけた人々か、姉歯氏自身なのか、それとも、過剰な報道合戦で「ネタ」にするために「病気の妻」まで巻き込んだマスコミか、それとも周囲の人々の冷淡な反応か? 正直、姉歯さんの頭髪のことを話の種にしたり、この事件での「プライバシー暴き」の記事などを喜んで読んで喜んでいた僕は、「全部を誰かのせい」にはできないような気がしています。彼らを追い詰めた「空気」の一部は、僕が担っていたものでした。「安すぎるマンション」や「ゴシップ記事」というのは、それを求める人々のニーズに合わせて生まれたものです。みんなが「質の良いものはそれなりの値段がするのが当然」だと思っていたり(まあ、これは騙されるのもしょうがない面もあるんですが)、「下品なゴシップ記事が載るような雑誌は読まない」というような人ばかりなら、こういう類のものは、自然消滅していくはずなのですから。
僕はこの死に対して、ほんの少しだけ罪悪感を覚えます。 でも、「他にどうすればよかったんだ?」と自分に問いかけても、うまく答えを出すことができないのです。「自殺するかもしれない」からと言って、「無罪」にはできないだろうし。結局は、そういう小さな罪悪感は、「生贄になったのが自分じゃなくてよかった」という安堵の裏返しのような気もします。
結局、人間というのは本質的に残酷な生き物で、地球は「ちょっと運が悪かった人々」を切り捨てながら今日も回っているのかもしれません。 僕は、自分がこうして生きていられるのは、「正しいから」じゃなくて、「運が良いから」なのだと、最近よく考えています。
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