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2005年12月08日(木)
『第9中隊』の悲劇

「クーリエ・ジャポン」001.創刊号(講談社)の記事「アフガン侵攻を描いた超大作が、ロシアの世論を真っ二つに」より。記事を書いているのは、ロシア人のイトーギ記者です。

【『プライベート・ライアン』では、米軍が一兵士の救出に全力を注ぐ。ところが『第9中隊』では、アフガニスタンで闘う隊員の救出に、ソ連軍は戦車1台、ヘリコプター1機はおろか、歩兵の1人もよこさない。混乱のなか、第9中隊は完全に忘れ去られてしまったのだ。政府が軍に即時撤退を命じ、軍事介入は終結したにもかかわらず、第9中隊の若者たちは死んでいくしかなかった。これが実際にあった「忘れられた連隊」事件の顛末である。
 ボンダルチュク監督がアフガン侵攻を取り上げたことに驚いた人は多かった。ソ連・アフガニスタン戦争を題材にした映画といえば、駄作・愚作の代名詞のようなものだったからである。金髪の「ランボー」たちがイスラム戦士ムジャヒディンの一団と一掃するプロパガンダ映画を、我々ロシア人は何本観せられてきたことだろう。いずれもハリウッドのB級映画を思い起こさせる、お粗末なものばかりだった。
 だが、『第9中隊』は、ありきたりの戦争映画とは一線を画している。戦争映画にお決まりの戦闘シーンよりもむしろ、18歳の無邪気な兵士たち7人の運命が淡々と語られる。誰にも顧みられることなく、名も知らぬ高地に置き去りにされた若い兵士たち。一中隊の犬死にを見届けたのは、高くそびえるアフガニスタンの山々だけだった。

 月並みな表現だが、「正義のための戦争」にしても「民族紛争」にしても、戦場で戦う人間は自分が何に命をかけているのか、わかっていたはずだ。
 しかし第9中隊は、まったく不条理な死に方をした。彼らの無駄死にの責任は、誰もとってはくれない。この犯罪の指導者であるソ連の指導部は、とっくに消滅してしまっているのだ。
 見逃してはならないのは、この映画の「正義」の裏にある「陰の面」だ。確かにソ連の指導者たちは、若い兵士たちの悲劇に目を向けることはなかった。ボンダルチュク監督は自分の映画づくりの技術、政治意識、才能を総動員して、そのことを指摘しようとしていたのだ。
 だが、ボンダルチュク自身も敵側の視点、つまりアフガニスタン人の苦難についての視点を完全に欠いている。
 別に公表を禁じられているわけではないので明らかにするが、ソ連軍がアフガニスタンに駐留していた期間、実に150万人におよぶアフガニスタン人の命が奪われているのである。これはソ連側の死者数(公式発表では約1万4000人)の100倍にものぼる数だ。
 また政治学者が指摘しているように、現在の惨憺たるアフガニスタン情勢が、ソ連のアフガニスタン侵攻に起因しているのも事実である。

 『第9中隊』の観客は、ロシア兵の死には声をあげて泣く一方、ソ連のミサイルが報復攻撃でアフガニスタンの村全体を焼き尽くす場面では快哉を叫ぶ。映画がそのようなつくりになっているからだ。
 はるか遠くから炎の中の村を俯瞰するシーンは、政治的野心に汲々としてアフガニスタンを眺めるソ連指導者の近視眼的視点と重ならないだろうか。
 確かにこの映画は型どおりの戦争映画とは一線を画しているが、加害者としての戦争認識が甘いという側面は、否定できまい。
 つまり、この映画にアフガニスタン側の視点が欠けているために、反戦メッセージが弱まっており、それが観客を困惑させるのだ。
 これは愛国者の映画か、非国民の映画か。ソビエト的なのか、反ソビエト的なのか。公開直後、映画評論家のあいだで論争が生じたのも、その辺に理由があるのだろう。】

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 公開1週目で12億円近い興行収入を記録したという、この『第9中隊』、製作には、ロシア映画史上空前の10億円が費やされ、50万ドル(=約6000万円)がかけられた飛行機の爆破シーンが、大きな話題になっているそうです。ハリウッドの「超大作」に比べれば、金額的には微々たるものではあるのですけど。
 この紹介記事から、この『第9中隊』という映画の魅力が伝わってくる一方で、「戦争を語ることの難しさ」みたいなものを僕は感じました。
 「この映画は、アフガニスタン側からの視点に乏しく、反戦映画としてのメッセージが弱い」とイトーギ記者はここで書かれていて、それは確かに「戦争というものを俯瞰する」という立場からは「正しい」のだと僕も思います。でも、その一方で、そういう「神の視点からのメッセージ」というのは、ストレートに観客に伝わるのだろうか?という疑問もあるのです。
 例えば、原爆について描かれた映画に、「日本軍がアメリカ兵を虐待するシーン」が含まれているとすれば、はたしてそれは、「反戦メッセージ」を強める効果があるのだろうか?と。
 戦争を語るための「視点」には、本当にさまざまなものがあります。当時の指導者の立場からみたもの、双方の状況を歴史的に俯瞰したもの、翻弄される個人・あるいは家族の実体験…
 そしてこれらは、どれが「正解」というわけではないのです。そこには、「それぞれの立場からみた光景」があるだけなのだから。
 そして、戦争の「怖さ」というのは、「そこで生きている普通の人々は、そんな『神の視点』なんて持てるはずがない」ということなんですよね。
 この映画でフョードル・ボンダルチュク監督が描こうしたものは、「置き去りにされた若者たちの目を通しての戦争」だと思いますし、多くの観客にとっては、その彼らの「立場」は、「もし自分がその立場に置かれたら…」と想像することが可能なものでしょう。しかしながら、そのリアリズムというのは、公平な視点で描こうとすればするほど、伝わりにくくなってしまうものなのではないでしょうか。
 人間なんて身勝手なもので、『黒い雨』を観ればアメリカの横暴に憤っていた人が、『パール・ハーバー』を観れば、日本の奇襲に激怒するのですよね。そして、そういう影響されやすさこそが、「真実」なわけで。「正義」なんていうのは、所詮「立場の違い」だけなのではないか、と僕は考えてしまうのです。でも、それを認めてしまったら、世界に「正しいこと」なんてなくなってしまうのではないかという恐怖もあって。
 見捨てられた若者たちに涙ぐむ人たちが、報復攻撃で焼け野原にされた「敵国」の姿に、快哉を叫ぶ。まさに、これが「戦争」なのです。その炎の中に、同じような青年や子供が焼かれていたとしても、それを想像する感覚が、マヒしてしまっている状態。でも、その場面で快哉を叫んだ人たちのなかには、家路の途中で、違和感を感じる人もいるはずです。僕は、それでいいというか、わざとらしい「公平さ」を劇中に入れるよりは、そのほうがいいんじゃないかと思うのですよ。それこそ、観た人にとっての「戦争体験」なのだから。
 
 ちなみに、この映画はロシア国内でもまさに賛否両論のようで、この文章のなかにも、「やっと真実を教えてくれる映画に出会った!」という女性の感想や「このくだらん映画には、真実のひとかけらもない」というアフガン帰還兵のコメントが引用されています。

 それにしても、本当に「戦争を語ること」というのは難しいものですね。結局、どんなに小さな声でも、「その人なりの視点から、語り続ける」しかないのかもしれません。