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2005年11月27日(日) ■ |
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フィギュアスケートという競技の最大の問題点 |
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「明るいクヨクヨ教」(東海林さだお著・文春文庫)より。
(「冬季オリンピック大批判」というエッセイの中の、フィギュアスケートの項より)
【オリンピック関係者や、フィギュアスケート関係者は、グルグル回っている選手を見て美しいという。 一般民衆も美しいという。 グルグル回っている人間は、本当に美しいのか。 もし道ばたで、誰かが急にグルグル回り出したとしたら、周りにいる人はどう思うだろう。 どうやらこの人は急に災難に見舞われたらしい、急に個人的にたつ巻きに襲われたらしい、かわいそうだ、と思うのが健康な人間の考え方ではないだろうか。 災難に見えるスポーツ、体によくないスポーツ、それがフィギュアスケートなのだ。 体によくないスポーツなんて、そうざらにあるものではない。 フィギュアスケートには、さらにもう一つ問題点がある。 それはマタの問題である。 マタが見えてしまう問題である。 このマタの問題は、この競技が生まれたときからずうっと曖昧にされ続けてきた。 競技中の、ここが見せ場、というときにマタが見えてしまうことが多い。 大きく開いてしまったあのマタ、あれは見てもいいものなのか。 それとも本当は見てはいけないものなのか。 そこのところがいまだに曖昧にされたままなのだ。 だから人々は、そこのところで大きくとまどい、見るような見ないような、嬉しいような嬉しくないような、曖昧な態度をとらざるをえないのだ。 見ちゃいけない、というなら見ません。 見ていい、というなら見ます。 フィギュアスケートの歴史は長いのだから、このへんでそろそろ結論を出して欲しい。 オリンピック当局、及びフィギュアスケート当局は、次のうちのどれかに○をつけてほしい。 (1)見ないで欲しい。 (2)できたら別のところを見て欲しい。 (3)競技の性質上、やむをえずああいうことになってしまうが、あそこだけ期待するのはやめて欲しい。 (4)そこのところだけ、軽く目を伏せて欲しい。 (5)じっくり見てやってください。】
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僕はたぶん、(3)なのではないかと思うのですが… これぞまさに、フィギュアスケートという競技に関する禁断の問いなのではないでしょうか。いや、ヘタに考えてしまうと、男としては、女子のフィギュアスケートをどんな顔で見ればいいのか悩んでしまいそう。もちろんあれは、ああいう競技であり、とくに女子の場合には「女性としての美を競うもの」であるという大前提があるとしても、「あんまり一生懸命観ていては、エロオヤジと思われるのでは…」とか心配にもなってくるのですよね。やっているのは、若い女性ばかりだしねえ。 まあ正直なところ、「そういう視線」って、まったくゼロにはできないし、やっている側も、それはきっと意識しているはずです。「そこのところに注目されたい」かどうかはさておき、少なくとも「見られてもいい」ような格好でやっているようですし。 わざわざあんな格好しなくても…という気がしますが、あの氷の上の状態で、身体を使って表現するとすれば、足を上げないというのは、動きの大きなバリエーションをひとつ失ってしまいます。 基本的には、局所にではなくて、身体全体の動きに注目してね、ということなのでしょう。ただ、このフィギュアスケートという競技が冬季オリンピックの中でも非常に人気があり、メダルを獲った有力選手が、その後もプロとして大きな収入を得ることができるというのも、そういう「エロスの要素」があればこそ、なんだろうしなあ。
そういえば、以前演技中に衣装が脱げてしまって、上半身が丸見えになりながらも隔すことなくそのまま予定通りの演技を続けたという選手がいました。彼女は、演技を終えたあと、控え室で号泣していたそうです。 選手たちは、魅せたいけど、見せたいわけじゃないのです。多くの選手は、10代半ばから20代の女の子なんだから、内心、恥ずかしさもあるんじゃないのかなあ。 本当に、フィギュアスケートというのは、そういう「美しさ」と「エロス」のギリギリのところにある競技なのだなあ、と思います。そして、そういう微妙さや儚さが、人々の心をとらえているのでしょうね。
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