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2005年11月03日(木)
ディスプレイの中の「劇場」

毎日新聞の記事より。

【静岡県伊豆の国市の県立高校1年の女子生徒(16)が母親(47)に劇薬のタリウムを飲ませたとして殺人未遂容疑で逮捕された事件で、女子生徒の自宅から押収されたパソコンの日記に、母親の入院後も病室でタリウムを飲ませたという記述があることが2日分かった。母親は入院後も体調が悪化し、意識不明に陥っていることなどから、県警は記述の信ぴょう性を慎重に調べている。また、県警は同日、少女を静岡地検沼津支部に送検した。
 これまでの調べでは、女子生徒はパソコンで克明な日記をつけていた。その一部を今年6月から10月中旬にかけて、インターネット上に開設した自分のブログ(日記風サイト)に転載していた。日記には、病状が変化していく母親を撮影した複数の写真もあった。県警は撮影に使用したとみられるデジタルカメラも押収している。
 少女の部屋にはタリウムなどの薬品のほか、理科実験用の器具もあった。また、動物の標本やハトの死がいなどに加え、家族らを連続して毒殺した英国犯罪史上有名なグレアム・ヤングに関する本も発見された。
 少女は「父親に親しみを感じていたが、母親は好きでも嫌いでもない」などと供述している。県警は少女がなぜ母親を狙ったのかについて、少女から話を聴くとともに、押収品を分析するなどして調べている。】

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 この事件のニュースを聞いて、僕は、こんなことを考えました。 
 さて、この16歳の女の子は、自分の「ブログ」を持っていなかったら、こんな恐ろしい行為を延々と続けることができたのだろうか?と。
 僕自身、こうして毎日ネット上に文章を書いていると、自分の行動に対して、一種の「客観的な視点」を持つようになってきました。例えば、何か日常生活において失敗をしたときに、それまでは、ただひたすらに「悲しい」とか「悔しい」という感情で満たされていたはずなのに、心のどこかに「さて、これをどうやって書こうかな」と、考えている自分がいるのです。こういうのを続けていると、「失敗に対してもポジティブな要素を見出せる」というメリットがある一方で、なんだか、自分のことすら他人事のように思えてくるんですよね……リアルでの出来事が、すべて「ネタ」に思えてくるような錯覚。
 もちろん、この手の「異常な犯罪」というのは、必ずしもネットがあるから起こるというものではなくて、19世紀後半には、ロンドンに「切り裂きジャック」と呼ばれる連続殺人犯が現れています。おそらく、そういう「犯罪的な性癖を有する人間」というのは、どんな社会にも存在していたのでしょう。石器時代にもいたのか?とか、その割合は、有史以来一定なのか?なんてことは、僕の知識の範囲ではなんとも言えないのですが。
 ただ僕は、この女の子の行動を持続させ、エスカレートさせていったのには、「ネットで発信すること」の影響もあるのかもしれないな、という気がするのです。
 ネット上で不倫とかを告白しているようなサイトを読んでいると、だんだん、「この人は、こうして『告白』するために不倫をやっているのではないか?」というふうに思えてくることってないですか?ドラマチックな人生をブログに書いているというよりは、ブログに書くために、無理矢理、自分の人生を「ドラマチック」なものにしてしまおうというような違和感が、そこにはあるのです。例に挙げるのは失礼ですが、まるで、柳美里さんの小説と人生のような。
 人間の「表現欲」みたいなものってキリがないのですけど、今までは、グリコ・森永事件の「かい人21面相」みたいに、新聞社に細心の注意を払って「脅迫状」を送りつけるなんてことをやらなければならなかったのに、現代では、誰でもネットを通じて「かい人21面相」になることができます。もっともこれは諸刃の剣で、普通のプロバイダー経由でブログを作っていれば、簡単に「足がつく」なんてことは自明の理なんですが。この女の子は、そんなことも考えずに「暴走」してしまうほど、歪みきってしまっていたのでしょうか。彼女が踊っている舞台は脆く、一度その奈落の底に落ちてしまえば、もう、二度と戻ってくることはできないのに…
 それにしても、いろんなサイトやブログが「祭り」で叩かれて、ちょっとでも問題があることを書いたらオシマイ、なんて恐れおののいているのだけれど、こういう事件が起こってみると、このネットという広い広い世界では、ちょっとくらい「問題がありそうな記述」があったって、そう簡単には、誰も気づいてはくれないんだな…と、あらためて感じました。
 ネットという「劇場」の闇は、まだまだ暗く、そして深いようです。