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2005年10月23日(日)
「十七歳であるが故」の完璧

「インストール」(綿矢りさ著・河出書房新社)の巻末の高橋源一郎さんの「解説」より。

【『インストール』で、もっとも重要なのは、言葉が(日本語が)、ほとんど美しい音楽のように使われている(と感じられる)ことだ。それは、つまり、この小説が「完璧な日本語」で書かれているということだ。
 しかし、十七歳の、当時、高校生の作者に、そんな「完璧な日本語」の作品を書くことが可能だろうか。
 それは可能だ、それどころか、「十七歳であるが故」に完璧なのだ、とぼくは思うのである。
 およそ十四歳から十七歳にかけて、青春前期とも呼ぶべき、この数年間を、ぼくは特別な時期だと考えている。そして、そのことは、ぼくにとって、とても大きな問題だったのだ。


 ぼくが、「書く」ようになったのは、身近に、詩や批評を書く友人たちがいたからだ。およそ、十四歳から十七歳の頃にかけて、ぼくは、そのような友人たちと「書く」真似事を続けていた。その中に、「完璧」としか言いようのないものを「書く」友人がいた。
 彼らが「書く」ものは、ぼくが「書く」ものとは根本的に違っていた。俗っぽい言い方をするのなら、彼らの言葉は光り輝いていて、「ほんもの」であるのに、ぼくの「書く」言葉は、贋金に過ぎない。ぼくはそう考え、それでも、たとえそれが「贋金」であっても、ぼくは書き続けたいと願ったのだった。
 やがて、彼らは「書く」ことを止めた。ぼくは、懲りずに書き続けているが、自分の言葉が「贋金」ではないかという思いは、いまでも、どこかに残っている。
 彼らの書いたものは、ぼくの手元にあり、たまに読み返すのだけれど、十代の青年(少年?)の思い過ごしではなく、やはり「完璧」な(しかも、当時感じていたより遥かに初々しい)ものだ、といまでも思う。つまり、十五歳や十六歳や十七歳の青年(少年)の書いたものとして「完璧」なのではなく、その時代の全表現の中においても「完璧」だった、といまもぼくは感じる。
 昔と異なるのは、そのことを「異常」だとか、「天才」はいるものだ、と諦めるのではなく、冷静に受けとめることができるようになったことだ。
 おそらく、どの時代にも、言葉(や音や色彩や形)に対して、異常に敏感で、自分の周りに存在する、それらの言葉(や音や色彩や形)を、「白紙」のように吸収し、そして、いったん吸収した言葉(や音や色彩や形)を、自分という「白紙」の周辺に、奇蹟のように結晶化することのできる人間がいるのだろう。
 それを「才能」と呼ぶのなら、その「才能jは、我々が、通常、「小説を書く才能がある」とか「音楽家をしての優れた才能」と呼ぶときの「才能」とは異なったものだ、とぼくは考える。
 そして、そのような「天才」たちを、ぼくは、ぼくの友人だけではなく、言語芸術(だけではないが)の歴史において、何人も知っているのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 正直、僕にとっての「綿矢りさ」という作家の最初の印象は、「りさたん萌え〜」の域を出ないものでした。17歳の女子高生が書いた、「ネットのエロチャットの話」なんて、「話題性」だけのイロモノなのではないか、と。
 でも、今回あらためて『インストール』を読み返してみて、この文章のテンポの良さは、やっぱり、タダモノではないなあ、と感じたのです。むしろ、「内容そのものに物珍しさが無くなってしまった今」だからこそ、この小説の「文体の凄さ」が伝わってくるのかもしれません。
 この高橋源一郎さんの「解説」には、高橋さんが考えている「才能」について書かれているのですが、【十四歳から十七歳にかけて、青春前期とも呼ぶべき、この数年間を、ぼくは特別な時期だと考えている。】というのを読んで、僕も先日実家で、自分が高校の頃に書いていた文章を見つけて、その考えの「青臭さ」に苦笑しながらも、なんだか、その頃の文章のほうが「面白い」ような気がしてならなかったのを思い出しました。残念ながら、当時の僕の興味は、「読む」ことや「ゲームで遊ぶこと」に向いていて、「書く」というのは片手間の気分転換にすぎなかったのですが、それでも、僕なりに「あの頃にしか書けない文章」というのは、存在したのではないかと、今になって思います。「天才」とは程遠い僕にでも、そういう時期があったのです、たぶん。妙に分別くさくなってしまった今では、絶対に届かない「何か」が。
 高橋さんは、この文章のあと、【デビュー作『インストール』の「完璧さ」(と初々しさ)は、彼女が、その「天才」たちの仲間であることを証明しているだろう。だが、それだけではないのでははないか、とぼくの(小説家としての)本能は告げるのである。】と書かれています。そしてそれは、何かの時代の終わり、あるいは始まりなのではないか、と問われています。
 「たとえそれが『贋金』であっても、ぼくは書き続けたい」という高橋さんの言葉は、「才能」を形にするには、「一瞬のきらめき」とともに、一種の「執念」のようなものが必要であり、そういう持続力がないと、職業作家としてやっていくのは難しい、ということを示しています。「才能」があっても、それをうまく形にしていくというのは、本当に難しいことなのです。そういう「瞬発力」と「持続力」は、両立することのほうが珍しいのだろうし。
 綿矢りささんは、そういう「一瞬のきらめきのような才能の時期」に現れ、これから、「では、その『きらめき』というのは、年齢を重ねたらどうなるのか?」というのを問われていくわけです。
 正直、僕にはこの高橋さんが書かれている「才能」の正体は、はっきりとはわかりません。でも、綿矢さんには、すごいプレッシャーがかかっているのだろうな、というのは間違いないようです。