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2005年09月29日(木) ■ |
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三島由紀夫の「優しい素顔」 |
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「昭和史が面白い」(半藤一利編著・文春文庫)より。
(「三島由紀夫・善意の素顔」の回。対談されているのは、ホスト役の半藤一利さんと、元毎日新聞の記者で、三島さんに関する著書もある徳岡孝夫さんと、三島さんと交誼が深かった、歌手・美輪明宏さんです。)
【半藤:徳岡さんが三島さんとはじめて出会ったのは?
徳岡:私は毎日新聞の記者として、何度かインタビューさせていただきました。特に親しくなったのは、亡くなる前の三年間のお付き合いでしたから、美輪さんとは比べものならないんですけど。でも昭和四十二年には、僕の特派員としての赴任先のバンコクに三島さんが取材のために来て、一週間ずっと一緒に過ごしたこともありました。
美輪:それは、『暁の寺』の取材のときですね。
徳岡:そうです。二人で連日、日光浴したり映画見たり、めし食ったり……。そのときに、三島さんは非常に公私のけじめのはっきりした方なんだなあと思いました。公的な場では完璧に”作家のマスク”をつけて行動されていたようですけど、私的な場でお話をすると、本当に素直で気持ちのいい人だった。 あのころ、「新潮」で『奔馬』を連載中だったんですが、三島さん私に「原稿料いくらだと思う? 一枚三千円だよぉ」って(笑)。まあ純文学の雑誌としても格安ですけど、それくらいの原稿料一ヵ月分なんて、三島さんは一晩で遣ってしまったでしょう。そんなこと言う三島さんが普通の人に感じられて、おかしくて。
美輪:公の場に行くと、見てておかしいくらいにガラッと人が変わる。とにかく文壇人としてナメられないようにという気遣いだったんでしょう。でも普段接していると、義理堅くて優しい人なんですよ。原稿用紙に美しい字でキチッと書くのも「植字工が苦労すると可哀相だから」という気持ちからだったし、待ち合わせには十五分前に必ず来ているのも「待たせるよりも待つほうが楽だから」と言って。私なんか、今日こそは三島さんを待っててやろうと思って二十分ぐらい前に行ったのにやっぱり先にいたんで「あなた、箒(ホウキ)にでも乗ってくるんじゃないの」(笑)。】
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三島由紀夫さんといえば、とくに晩年はボディビルで体を鍛えたり、右傾化した言動が取り上げられたり、悪筆で有名な作家が多いなか、原稿用紙に美しい字できちんと書かれていたりと、とかく「厳しい人」というイメージが強いような気がします。冗談が通じないというか、マジメな堅物とでもいうか。 まあ、「潮騒」なんていう作品もありますから、気難しくて厳しいだけの堅物ではないのでしょうが、とくに、亡くなられかたのインパクトがあまりに強いため(市ヶ谷の陸上自衛隊の駐屯地の総監室で割腹自殺)、そんな印象があるのですよね。 でも、身近なところで接した人たちにとっての「人間、三島由紀夫」は、必ずしもそうではなくて、「厳しく、近寄りがたくみえた面」というのは、三島さんの「優しさの裏返し」であった、ようなのです。 よく三島さんの潔癖な性格を伝えるために持ち出される「原稿用紙の字の美しさ」とか「時間に厳しい」なんていうエピソードは、実は、三島さんの「相手を思いやる気持ち」からきていたのです。常人以上に、「他人を傷つけたくない」という想いから出た行動にもかかわらず、多くの周囲の人からみれば、そうはみえなかったというのは、作家・三島由紀夫としては、むしろ本懐だったのかもしれませんが。 これを読んでいると、「優しさ」って何だろうなあ、とか、僕は考えてしまいます。読みにくい字を書いて、編集者に「ま、読めなくてもいいよ」と鷹揚に構えてみせるよりは、ちゃんと読めるように書いたほうが、「本当に優しい」はずだし、「待たせるのは辛いから、早すぎるくらい早く待ち合わせの場所に行く」ほうが、はるかに「優しい」ことのはずです。 でも、そういう「先回りの優しさ」っていうのは、あんまり伝わらないものなのかもしれないなあ、と、これを読んでいると思えてくるのです。 「優しすぎるのだけど、ナメられたくない」そんなプライドの高い人の生きかたというのは、結局、ああいうふうになってしまうしかなかったのかな、という気もするし、もっと他の道もあったはずなのに、とも感じます。 たぶん、三島さんは、「そういうふうにしか、生きられなかった人」なのだということは、なんとなくわかるのですけど。
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