|
|
2005年09月07日(水) ■ |
|
旅にも年齢がある。 |
|
「いつも旅のなか」(角田光代著:アクセス・パブリッシング)より。
【旅先で知り合い、ともに旅をはじめた男の子と女の子、彼らは年齢にふさわしい旅をしている。めずらしいものの並ぶ屋台で選んで選んでものを買うこと、蝋燭の明かりの下でそれを食すこと、安い部屋をシェアして節約すること、いきあたりばったりみたいな恋をすること、恋をしながら埃っぽい赤土の道を歩くこと、そうしながら遥か彼方の日本を、そこにいる退屈な恋人を思うこと……そんなすべて、彼らの年齢にこそふさわしい。ラオスのなんにもない町が親密じゃないなんて、彼らはこれっぽっちも思わないだろう。私もかつて、そういう旅をしていた。そういうふうに世界を見ていた。もし私が彼らともっと年が近かったら、木の腐りかけたベランダでの食事に、もっと興奮しただろう。そして刹那的に進行する彼らの恋に、うっとりと耳を傾けただろう。彼らの恋を「つまんない」と思い、何もない、親密に思えない町を「つまんない」と思う私は、それだけ年齢を重ねたのだ。デイパックを背負った彼らと、見かけこそ一緒であれ、私はずいぶん違ってしまったのだ。二十代の旅の仕方を、もうそろそろかえなくちゃいけないのかもしれない。そう思った。 友達づきあいでも恋愛のはじまりでも、仕事のやりかたでもなんでもいいんだけど、「なんだか以前の方法論が通用しないぞ」と気づくときがある。たとえば私と同い年の友人Aちゃんは、恋愛の序章において、酔って寝技というのが得意であり彼女の一般だったのだが、あるときからその成功率ががくんと下がる。私はもてなくなったのか、と彼女は悩むが、そうじゃなくて、酔って寝技は二十代の彼女にふさわしかったのであって、三十代半ばを過ぎた彼女のその技は、相手に恐怖を与えこそすれ恋愛の序章にはなり得ない。のだ。 旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある。このことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。旅ってつまんないのかも、とか、旅するのに飽きちゃった、と思うとき、それは旅の仕方と年齢が噛み合っていないのだ。】
〜〜〜〜〜〜〜
角田さんがラオスで出会った「22、3歳の男女」としばらく一緒に過ごしていて、「つまんない」と感じた理由について書かれた文章です。この男女は、日本にそれぞれ別の恋人がいるにもかかわらず、旅行中に気があって、ふたりで旅をしていたそうです。 角田さんは1967年生まれ、この文章は、比較的最近書かれたものですから、僕からすれば、【デイパックを背負った彼らと、見かけこそ一緒】という姿で旅をされていること自体が、僕にとっては驚きではあるのです。今まで、いわゆる「貧乏旅行」って、怖くてやったことないものなあ。 でも、ここに書かれている、「旅と年齢」の話は、たぶん、そういう「転機」にさしかかりつつある僕にもよくわかるような気がします。もちろんこれは「旅」に関することだけではなくて。 今までは、「楽しい」と思っていたことが、なぜか楽しくなくなってくる、今まではうまくいっていたやり方が、なぜか通用しなくなってくる。 友人Aちゃんに対する【酔って寝技は二十代の彼女にふさわしかったのであって、三十代半ばを過ぎた彼女のその技は、相手に恐怖を与えこそすれ恋愛の序章にはなり得ない。のだ。】というのは、辛らつな視点ではありますが、いくら自分では「今までと同じ」つもりでも、その周りではいろんなものが変わっていってしまうのだ、ということを、鮮やかに描き出しているような気がします。「成功率」を語れるほど「寝技」を多用してきたのかよ!と、ちょっとあきれてみたりもするのですが。
もし、いままでうまくいっていたことが急にうまくいかなくなってしまったときには、「このやり方は、自分の年齢と噛み合っているのだろうか?」と考えてることが必要なのかもしれません。それは、なかなか難しくて、物悲しいことなのですが。 僕も30年以上生きてきましたけど、正直、20歳のときより年をとったとは思うけれど、そういう「転換点」みたいなものははっきりと自分ではわからないし、それを認めたくない、という気持ちもあります。でも、それを認めるところからはじまる、新しい楽しみというのも、きっとあるのでしょう。それを信じたい。
まあ、そう実感しつつも「二十代の旅の仕方」や「寝技」へのこだわりををなかなか捨てられないというのも、またひとつの現実なのですけどね……
|
|