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2005年09月01日(木) ■ |
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まず、コマ割りひとつうまくできない。 |
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「ひとりずもう」(さくらももこ:絵と文・小学館)より。
【高校二年の夏休みが終わり、春休みがやってきた。この二年間というもの、何もしなかったことに焦りを感じつつ、私は漫画を描き始めた。 漫画の内容は、ラブコメの少女漫画だ。私は、正当な少女漫画家になりたかったのである。子供の頃から授業中にいっしょうけんめい描き続けた漫画の絵も、目がキラキラした少女漫画の女の子の絵ばかりだった。だから当然、自分の目指すべき作風は伝統的な恋物語の少女漫画だと思っていた。 普段から、らくがきは山のようにしていたが、いよいよ漫画を描いてみようと思うと、非常に難しいものだった。 まず、コマ割りひとつうまくできない。あんなにいっぱい漫画を読んでいたはずなのにいざ自分でコマを割ってみようと思っても、なかなか難しいものだ。 私はこんな事もできないのか…と驚いた。けっこう描けるんじゃないかと思っていたのに、ものさしを持ったとたんに悩んでいるなんて、なんという情なさだろう。 しかし、ものさしを持ったままじっとしているうちに春休みが終わってしまったら大変だ。上手くできなくても、とにかく進めていくしかない。 それで下描きを進めてみたのだが、絵を描くのってなんて難しいんだろう…とまた驚いた。自分は学校の中でも漫画は上手い方だと思っていたが、全然上手く描けない。どう見ても、人物の等身も狂っているし、背景もまるっきり下手だ。道端の木一本さえ上手く描けない。 かなり自信を失いつつあった。いっしょうけんめい描いているつもりだけど、いっしょうけんめいなのと上手いのとは全く別なんだなァ…と思った。なんかもう、やめた方がいいかもしれないなァ…とも思ったが、これは私の小さい頃からの目標だったのだから、一応やるだけやらなきゃ、と思い描き進めた。 10枚ぐらい下書きが進み、何度も読み返してみたが、全然面白くなかった。】
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さくらももこさんが、はじめて自分の漫画を描いたときのこと。 たぶん「仕事」にしても「創作」にしてもそういう傾向はあると思うのですが、一般的に、他人がやっていることを傍で見ていると、あるいは、できあがった作品を読者・視聴者などとして消費していると、「これ、つまんないなあ」と感じたり、「自分のほうが、うまくできるんじゃないか」と考えたりしがちです。 いやまあさすがに、プロ野球選手みたいに、150kmで向かってくるボールを100mもかっ飛ばすなんてことはできませんが、小説などに対しては、とくにそんなふうに思ってしまいませんか?だって、そこにあるのは、誰にでも書ける「文字」の羅列でしかないのですから。 しかし、実際にやってみると、「読者として好き」あるいは、「趣味の落書き」のレベルと「作品を描く」ことの間には、予想以上の大きな溝があるようです。何の仕事でもそうなのですが、傍からみて「大事そうに見えるところ」とプロにとっての「重視すべきこと」は、必ずしも同じではないことも多いのです。 たとえば、焼き鳥屋の仕事で、客としての僕は「あの焼き加減が難しいんだろうなあ」と思うのですが、実際にその仕事をやっている人にとっては、「焼く」というのももちろん大事なポイントではあるのですが、それ以前の「タネを同じ大きさでキレイに串にさしていく工程」というのが、ものすごく重視されているのです。病院で行われる「採血」にしても、あれは、最後に針を刺すというプロセスが大事だと僕も以前は思っていたのですが、実際にやってみると、「どの血管から採血をするのか?」という準備の過程や刺そうとする血管をしっかり固定するという、針を持っていないほうの手の動きの重要性がわかってきます。実は、本当の難しさというのは、消費する側にとっては、普段全然意識しないところに隠れていることもあるのです。 野球漫画を描くにしても、「カッコいい試合の場面」を描くことはできても、ただ試合の場面だけを描き続けるわけにはいきません。その試合と試合のあいだをどうやって繋いでいくのか、というのが、作品として質を決めていくような気がします。戦国時代を描いた時代小説でも、常に合戦シーンばかりというわけにもいきませんしね。 (「アストロ球団」のような、ごく一部の例外は存在するのですけど)
いまや人気作家のさくらももこさんでも最初はこんな感じだったのですから、本当にプロを目指すのであれば、結局は、うまくいかないことにあきらめずに、粘り強く描いていくしか方法はないのかもしれません。 ただ、どんなに粘り強く描いても、その先に「栄光のゴール」があるとは限らないのが、「創作」の辛いところではありますね……
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