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2005年07月30日(土)
「観客の少ないライブ」の恐怖!

「綿いっぱいの愛を!」(大槻ケンヂ著・ぴあ)より。

(大槻さんが、アマチュア時代に「観客ゼロ」の野外イベントで歌ったときのことを回想したあとで)

【動員のある日もない日も誇りを持って歌えばいいのだと38歳の今は思う。
 逆に、客として行ったライブの中では、僕も含めて客席四人というのがあった。登場した前衛音楽家は一曲目が終わると言った。
「じゃあ皆さん、自己紹介をしましょう」
 アットホームという解釈なのか? 一人一人立ち上がり「え〜杉並から来ました○○です。好きな音楽はブライアン・イーノと近田春夫でぇ…」ちょっと照れたりしながら挨拶をし合うという妙な展開になった。四人全員が終わると音楽家は信じられないことをまた言った。
「じゃあついでに、みんなでお互いにニックネームを付け合いましょう」
 ちなみに僕には「夕暮れ君」というアダ名がつけられた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は「演じる側」にまわったことはないのですけど、一観客として、「観客が少ないステージ」というのには、ものすごく恐怖を感じます。たとえば、デパートのイベントなどで、ちょっと懐かしめの芸能人とかが壇上で何かやっていたりしますよね。そういう場でヘタに立ち止まってしまうと、「自分が弄られるのではないか」と不安でならないのです。コンサートなんかでも、客入りが悪いと「客が少なくて怒っているのではないか」なんて、ものすごく心配になってしまうし、「観客参加型」という状況だと「頼むから、僕はいないものとして扱ってくれ!」と、ステージに上がらされたりしないように、心から祈っているのです。いや、僕は観たいからここにいるのであって、参加したいんじゃないんだよ、と。それでも「サルティンバンコ」とかで、舞台に上がらされた観客がパフォーマーたちに弄られているのを観ると、やっぱり笑ってしまうのですけどね。内心、「自分が選ばれなくてよかった…」と安堵しながら。
 こういうのって、演じている側としては、「観客との一体感」だと思っているのかもしれませんが、観客側は、「自分も見られる立場になりたい人」場仮ではないと思うんですよ。まあ、この話みたいに観客が四人とかなら、なんとか開き直って自己紹介でもなんでもできなくはないでしょうけど…深夜のコンビニなら、ちょっとHな本でも買える、とかそういう感じで。そもそも、こういう「前衛的」なステージに来る人は、身内か、自分も創作に興味がある人が多そうだから、みんな「参加」してくれたのかもしれませんが。
 僕はこういう「客イジリ」は、基本的に苦手なんですが、2年前にラスベガスに行ったときには、かなり驚きました。ラスベガスの各ホテルが売り物にしているショー(シルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマンスやマジックショー、壮大なレビューなどがあるのです)が始まる前には、必ずといっていいほど「客イジリの時間」というのがあるんですよね。セリーヌ・ディオンのステージが始まる前には、ステージ上の大きなスクリーンに観客席が映し出されて、そこに何人かずつアップで映された人たちは、必ずみんなちょっとした「芸」をやるのです。カップルだったら、抱き合ってみせたり、頭の薄い男性を隣のパートナーがなでてみたり…
 これは、そういう習慣が全くない僕にとっては、まさに恐怖の時間でした。周りのアメリカ人は、そういう観客たちの姿を見て、リラックスした雰囲気で大ウケしていたのですが、僕はとにかく「自分のところに、あのカメラがやってきたらどうしよう…何をやればいいのか…」と、そのことばかり考えていました。開演のベルが鳴ったときには、本当に救われたような気分になったものです。
 もし僕が、大槻さんが書かれているような「観客四人のライブ」に紛れ込んでしまったら、あまりの恐怖に走って逃げてしまいそう……