初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2005年06月15日(水)
「プロの作家になれる人」の見分けかた

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年7月号の記事「出動!トロ・リサーチ・第19回〜持ち込みで本を出版できるのか?」より。

(「持ち込み」で本を出版できるのか確かめる、という企画の記事で、筆者が実際に各出版社の編集者に取材したものの一部です。

【「持ち込みですか、もちろん歓迎ですよ」
 開口一番、力強く言い切ってくれたのは、小学館出版局の菅原朝也(文芸副編集長)さんだ。同社が小説に本腰を入れ始めたのは1997年頃から。自社文学賞を持っていなかったから、どうすれば原稿を持ち込んでもらえるか頭を悩ませたほどだった。実際、菅原さん担当の文芸作品として最初のヒットとなった松岡圭祐氏の『催眠』は、知人を介して持ち込まれた原稿だったそうだ。
「その後、嶽本野ばらさんの本を出すとき、帯に原稿募集と入れてみたんです。この本に興味を持つ人なら、という読みですね。けっこう反響がありましたよ」
 そのなかには、後の大ヒットにつながる反響もあった。帯を見た市川拓司氏が、この本の編集者に読んでもらいたいと、既刊本を送ってくれたのだ。それを読んだ菅原さんがホレ込んで手紙を出し、『いま、会いにゆきます』へとつながっていったというから、本が持ち込みの役割を果たしたことになる。
「持ち込みで見るのは文体なんです。作家としての生理を持っているかが第一で、技術は二の次。こっちもプロですから、数枚読めばだいたいわかります。音楽プロデューサーがデモテープを聴くときに似ているかもしれない。楽曲ではない部分が決め手になるという意味で」】

〜〜〜〜〜〜〜

 もちろん、これは菅原さんへの個人的なインタビューですから、それぞれの編集者に、それぞれの見方があるのだとは思います。でも、この【持ち込みで見るのは文体なんです】という言葉には、やっぱり、「プロの目」あるいは、「プロ作家を見出す目」というのが感じられたのです。
 日頃誰かが書いたものを読むときに「文体」にこだわりを持っている読者というのは、そんなには多くないはずです。でも、よく考えてみると、それぞれの「作家らしさ」というのは、扱っているネタの内容というよりは、それぞれの作家特有の「文体」に依存している部分が大きいのです。
 「村上春樹らしさ」とか「椎名誠らしさ」とか「舞城王太郎らしさ」というのは、彼らが扱っている「内容」もさることながら、作者を知らずに読んでいても「あっ、村上さんが書いたものだな」と思い浮かぶような「文体」の賜物なんですよね。

 綿矢りささんの「蹴りたい背中」を読んで、僕などは不謹慎ながら「こんな話、誰にでも書けるんじゃない?」とか感じていたのですが、「ああいうストーリー」は誰にでも書けても、あの「綿矢りさ」らしい言い回し、すなわち「文体」は、誰にでも書けるというものではないですよねえ。「こんな話」は書けても、「こんなふうに」は書けない。それこそ、まさに「才能」なのだ、ということなのでしょう。そして、「何を書くか」ということにばかり目がいきがちだけれど、むしろ、プロとしてコンスタントに作品を生み出していくには、「どう書くか」を確立していくことが大事だということなのです。

 そういえば、最近のお笑い界は、いわゆる「あるあるネタ」ばかりをみんなやっているような気がしますけど、売れるために必要なのは、ひとつひとつのネタの面白さはさることながら、そのネタの「見せ方」なのではないかなあ、と思います。「ギター侍」波田陽区とかレギュラーの「あるある探検隊」というのは、ネタの中身が飛びぬけて他の芸人より面白いというよりは(もちろん、つまらなくはないとしても)、パフォーマンスとの組み合わせで、「より面白く見せている」のです。逆に、あの形式にのっとってさえいれば、多少出来の悪いネタが混じっていても、なんとなく笑ってしまいますしね。「文体」には、そういう利点もあるのです。

 まあ、WEBサイトの文章でそこまで意識する必要はないのでしょうが、「マンネリだ」と思われるほどの「自分の型を作る」というのは、面白いネタを毎日考えるよりも、有効な「売れるための手段」なのかもしれません。
 「何を書くか」に僕らはとらわれがちだけれど、長い目でみれば、「どう書くか」のほうが重要な場合も、けっして少なくはないようですから。