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2005年06月09日(木)
アインシュタイン博士からの手紙

毎日新聞の記事より。

【アインシュタイン(1879〜1955)博士が平和観や戦争責任についてつづった6通の手紙の寄贈先を、東京都中野区在住、哲学者の故・篠原正瑛(せいえい)さんの家族が探している。博士は第二次大戦中、ルーズベルト米大統領(当時)に原爆開発を促す連名の書簡を送った。「あなたは平和主義者と言うが、なぜ開発を促したのか」と批判する篠原さんの指摘をきっかけに始まった文通の手紙で、家族は「今年は戦後60年の節目。平和を考える材料にしてほしい」と話している。
 篠原さんは戦前、ドイツに留学して哲学を学んだ。現地で終戦を迎え、連合国軍に2年間抑留された後に帰国、著述活動を始めた。ドイツ語で書かれた博士への最初の手紙は53年1月。6通は53年2月から54年7月にかけ博士が送った。
 53年2月22日付の手紙で博士は「私は絶対的な平和主義者ではない」と書き、ナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当で、必要なことだったと主張した。
 「日本は原爆投下のモルモットにされたのではないか」。篠原さんが同6月18日付の手紙でただすと、非礼と知りながら、あえてその裏に返事を書いた同23日付の手紙が博士から届いた。
 「日本への原爆使用は常に有罪と考えているが、日本人が朝鮮や中国で行った行為に対して(篠原さんに)責任があると言われるのと同様、(私は)何もできなかった」とし、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と怒りをあらわにした。
 時に感情をぶつけ合うこうしたやり取りから、2人に友情が生まれた。篠原さんは人形や絵画を米国へ届け、博士はサイン入りの写真を贈った。
 篠原さんと結婚したばかりの妻信子さん(80)は、写真の博士が古びたカーディガン姿なのを見て、手編みのセーターを贈ると申し出た。博士は「あなたの国にも必要とする人は大勢いらっしゃる」と丁重に辞退した。
 博士は戦後、平和運動に取り組み、核兵器廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出た55年に死去した。
 篠原さんは90年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、01年に89歳で亡くなった。信子さんは蔵書などを売って療養費に充てたが、手紙は手放さなかった。遺産は、預金約30万円と書籍約3000冊だった。
 
 ◇アインシュタイン博士からの手紙(抜粋)
1953年2月22日
……私は絶対的な平和主義者だとは言っていません。私は常に、確信的な平和主義者です。つまり、確信的な平和主義者としてでも、私の考えでは暴力が必要になる条件があるのです。
その条件というのは、私に敵がいて、その敵の目的が私や私の家族を無条件に抹殺しようとしている場合です。……したがって、私の考えではナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当なことであり、そうする必要がありました。
1953年6月23日
……私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。日本人が朝鮮や中国で行ったすべての行為に対して「あなた(篠原さん)に責任がある」と言われるのと同様、(私は)ほとんど何もできなかったのです。……他人やその人の行為についてはまず、十分な情報を手に入れてから、自分の意見を述べるように努力すべきでしょう。あなたは、日本で私を批判的に説明しようとしている。……
1953年7月18日
あなたが前回のお手紙で予告されていた、素晴らしい日本の木彫りの人形が届きました。素晴らしい贈り物に心から感謝します。
1954年5月25日
……奥様からの感動的なお申し出をありがとうございます。しかし、私はどのみち要求の多い人間でありますし、あなたの国にも必要とされるふさわしい人たちは大勢いらっしゃるでしょうから、その友情をお受けすることはできません。
1954年7月7日
……原爆開発で唯一の私の慰めとなることは、今回のおぞましい効果が継続して認識され、国家を超えた安全保障の構築が早まっていることです。ただ、国粋主義的なばかげた動きは相変わらずあるようです。
(手紙はすべてドイツ語。藤生竹志訳す)】

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 いやまあ、このエピソード自体は、「日本人哲学者と偉大な科学者の友情物語」というよりは、「有名な科学者に突っかかっていった、ちょっと偏執的な人の話」のような気もしなくはないんですけどね。アインシュタイン博士の「サイン入りの写真」なんて、「友情」というよりむしろ、「ファンサービス」的なものなのではないかなあ、とか思ってしまいます。「古びたカーディガンを写真で着ているから、手編みのセーターを贈ります」なんて言われたら、僕がアインシュタインだとしたら、イヤミじゃないか、とか勘繰ってしまいそう。
 でも、この「アインシュタインからの手紙」は、相手が公人であったり、公の場でのやりとりだったりしないが故の、「本心」が語られているような感じで、とても興味深いものでした。
 歴史的な観点から言えば、アインシュタイン博士は、原爆を開発した「マンハッタン計画」に大きな影響を与えた人物(名目上は参加メンバーに入っていないとしても)であったことは否定のしようがないでしょう。博士自身は、その使用に対しては、その威力を知るが故に、反対の立場をとってはいたのですが。
 そして「アインシュタイン博士が、あんな恐ろしい殺戮兵器の開発に協力しなかったら、広島・長崎の悲劇は起こらなかったのではないだろうか?」という疑問を後世の人間は抱いています。
 彼らが造らなければ、誰かが同じようなものを造ったに違いないのかもしれないし、一科学者の「良心」みたいなものが、戦時下の政治に影響力を行使することは難しかったとしても。

 アインシュタイン博士は、「同じもの(核兵器)をナチスドイツに先に造られたら大変なことになる」という危機感を持っていたのでしょうし、実際のところ、その時代に生きた人々にとっては、それは「切実な恐怖」だったはずです。「自分や愛する人々の身を守るための暴力」というのを、完全に否定するというのは、本当に難しいことですし。
 結果的には、「原爆」というのは、「身を守るための暴力」としては、あまりに強力で、あまりに容赦のない兵器として完成してしまったわけですけど。

【私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。日本人が朝鮮や中国で行ったすべての行為に対して「あなた(篠原さん)に責任がある」と言われるのと同様、(私は)ほとんど何もできなかったのです。】という言葉からは、博士の「いたたまれない心境」が伝わってきます。たぶん、博士の実感として、本当に「何もできなかった」のでしょう。「ある人物に対する歴史的な認識」と「当事者のリアルタイムでの実感」には、やっぱり、大きな乖離があるようです。

 ただ、こんなふうに「歴史」というものを考えていくと、結局のところ「すべてのことは、『運命』であり、個人というのは、その流れの上に乗っているだけなのではないか?」という気もしてきます。
 例えば、第2次大戦の最大の戦犯とされているヒトラーだって、もし彼がいなくても、他の人物が同じように戦争をやっていたのではないか、とか。
 そして、その可能性を否定することは、誰にもできないのです。

 それでも、「何が起こっても、それは運命であり、誰のせいでもないんだよ」なんていう心境には、なかなかなれないのが人間でもあり、アインシュタインが、この「無礼な手紙」に返事をしたのは、きっと、彼自身の中にも、吐き出したいものがあったのでしょう。
 「自分にはどうしようもなかった」という一方で、消せない「罪の意識」もあったのだと思います。

 それにしても、こういうのって、「誰のせいでもない」としたら、一体、どうすればいいんでしょうね……

 核兵器に焼かれるのも、すべては、運命?