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2005年04月21日(木)
「名マネージャー・岡本敏子」という生きかた

読売新聞の記事より。

【画家の故岡本太郎氏の養女で岡本太郎記念館館長の岡本敏子(おかもと・としこ)さんが20日、東京都港区南青山6の自宅で死去しているのが見つかった。79歳だった。告別式の日取りは未定。
 大学時代に前衛画家の岡本太郎氏と出会い、半世紀にわたり秘書として創作活動を支え、後に養女となった。太郎氏が96年に亡くなると、岡本太郎記念現代芸術振興財団を設立、アトリエ兼自宅を記念館として公開した。近年の岡本太郎ブームで講演や本の執筆、テレビ出演で多忙な日々を送っていた。今月9日、川崎市岡本太郎美術館で糸井重里さんらと岡本太郎を語るイベントに出席した時は、とても元気だったという。著書に「岡本太郎に乾杯」「奇跡」などがある。】

参考リンク:TAROのコトダマ。(by ほぼ日刊イトイ新聞

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 僕が男子校から大学というところに来て、いちばん最初に理不尽を感じたのは、部活の勧誘の際に「女子マネージャー募集」という部がけっこうたくさんあったことでした。共学・体育系の高校などでは当たり前の光景なのかもしれませんが、当時は今よりもっと理屈屋だった僕は、「マネージャーなんて、他人の手伝いをするだけで、いいように使われるだけの役割じゃないか…」なんて声にできない憤りを感じてもいましたし、もっと深層では、「ふん!あの部活の先輩の男たちに釣られるための餌みたいなものだ」とか考えてもいたのです。実際、人によっては、そういう見方も当たらずとも遠からず、だったのかもしれませんけど。

 岡本敏子さんは、50年来、芸術家・岡本太郎をマネージメントしてきた人で、岡本太郎さんが亡くなられてからも、岡本太郎記念館の館長として、太郎さんの遺した言葉や作品を世に広めるための、さまざまな活動をされてきました。傍からみれば、芸術を爆発させる以外には、世渡りの才能があったとは考えにくい太郎さんなので、今の名声の陰には、敏子さんのサポートは必要不可欠だったに違いありません。芸術家の中には、優れた作品を世に遺す才能には恵まれていても、それを世の中にプレゼンテーションするための才能に恵まれなかったために、生前は無名で不遇だったという人は、ものすごくたくさんいるのですから。
 でも、彼女の「岡本太郎をプロデュースするための一生」というのは、【「私も描けたらいいな」と思ったら、描いてみるんだ、いや描いてみなければならない。】なんていう言葉を遺した芸術家・岡本太郎からすれば「軽蔑すべきもの」ではないのだろうか?なんて僕は思ってもみるのです。敏子さん自身は、ある意味「自分」という存在や、その「創造性」を捨てていたのだし。
 もちろん、御本人にとっては、「岡本太郎という作品」を創造していたのだ、という気持ちだったのかもしれませんが。
 まあ、岡本太郎さんがそのあたりをどう考えていたのかは僕にはわかりませんけど、現実的には、敏子さんが必要不可欠な存在であったのは、確かでしょう。

 僕は最近、「自分で創造する」ということの素晴らしさを信じたい一方で、「創造しようとすること」ばかりが賞賛されて、「創造しようとする人をサポートする人」というのが軽くみられているのではないかな、という気がしているのです。実際のところ、世間のすべての人がクリエイター向きなわけでもなく、むしろ、クリエイターを支える立場のほうが向いているはずの人なのに、「創造しないという罪悪感」みたいなものに追い立てられ、向いていない「創造的なこと」をやろうとしてがんじがらめになってしまうような、そんな場合も多いのではないか、と。

 マネージャーというのが、こんなに長い歴史を持っているのには、やっぱりそれなりの理由があるのでしょう。
 まあ、僕には女子マネージャーにモテた経験が皆無なので、「自分で競技したほうがいいんじゃない?」という意識を捨てきれない面も、やっぱりあるんですけどね。