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2005年04月02日(土)
インターネットの「善意」

「駄文にゅうす」さんからいらっしゃった方は、こちらへどうぞ(「編集権」等の話)


「ほぼ日刊イトイ新聞の本」(糸井重里著・講談社)より。

【いつものようにクリーチャーズ(糸井さんと付き合いのあるゲーム製作会社)に顔を出したとき、友だちというか部下だったというか、ある仕事仲間がパソコンのディスプレイを一心に見つめていた。
 何をそんなに熱心に見ているのか。気になってぼくもディスプレイをのぞきこませてもらったら、何やらいろいろな人の意見が記してあるようだった。
 ちょうどサッカーのワールドカップ98アジア最終予選が開催されていた時期で、ワールドカップ関連のホームページに書き込まれた意見を、彼は呼んでいたのである。
「サッカー日本代表を応援するホームページ」というサイトがそれだった。
「サッカー日本代表を応援するホームページ」に書き込まれていた内容は、ぼくを驚かすのに十分だった。
「『○○チームの△△は怪我で右足を負傷し出場できない』とニュースで報道されていましたが、ふらっと□□競技場へ立ち寄ったら練習試合で右足を使ってシュートを決めていましたよ」
 日本で見たり聞いたりするテレビや新聞などには載らない極秘情報が、さりげなく記されていたのだ。商社マンとして現地に赴任しているサッカーファンが、マスコミの派遣記者には発見できないような事実を拾って書き込んだものなのである。
 ここの掲示板ページでは、十一月に日本代表が念願のワールドカップ出場を決めたマレーシアのジョホールバルでのイラン戦のときなどは、
「月曜日のジョホールバルの試合をぜひ現地で観たい。でも、金曜日は午前11時から課内会議があるし、月曜日は午後2時から東京本社の営業販売促進会議に出なければならない。会議にきちんと出席し、現地で試合を観るための方法があったら教えてほしい」
 などというファンの質問に対し、別のファンが、
「いい方法がある。JALの成田16時20分発☆☆行きの便に乗ってシンガポールまで飛び、シンガポールから9時41分発ジョホールバル行きのバスに乗ればいい。競技場周辺にかならずダフ屋がいるから、チケットはなんとかなる。帰りは□□航空の○○行きの便に搭乗し、シンガポールで乗り換えれば午前11時半までに成田に到着できるから会議に間に合うのではないか」
 なんてことを答えていた。
 サッカーに熱い思いを持つファンが、同じ熱狂的ファンに役立つための情報をなんの見返りも考えずにアドバイスしているのだ。
 いままで、商社マンなら商社マン、教師なら教師、運転手なら運転手という具合にその人の人格は職業と一体のものとして見られがちだったと思う。
 実際は、そこにくくりきれないものを、皆持っているのは当たり前のことなのだが、ついつい忘れてしまう。

(中略)

このページを見たとき、情報の取り方や使い方が大きく変わってきたんだなあと思った。
 個人個人が職業や肩書きに関係なく情報を発信し、またそれを受けとめる一人ひとりの人間が存在する。そこでは興味や関心、個性などをひっくるめたまるごとの人格同士が交流していた。
 ここから何かとんでもない変化が起こるような気がした。
 人間は経済行為だけで動くものではない、損得だけで動くものでもない。身銭を切ってでも何かをしなければいけない、何かをしたいというものを、みんな持っているんだな、という子どものころに信じていたことが、ありありと再現されていた。
 驚きもしたが、何より、気持ちがよかった。
 いいものを見た。いいことを知ったという思いがあった。
 インターネットというものは、こりゃ、すげぇものかもしれない。これを知らないままでこの先、生きていくのはむつかしいぞ、とさえ思った。
 気持ちのいい衝撃があった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 かなり長い引用になってしまって申し訳ないのですが、この文章を読んで、僕も「自分がインターネットにはじめて接した時代のこと」を思いだしました。今となっては、「インターネットは危険だ!」「インターネットに騙されるな!」なんて、訳知り顔で声高に書いている僕なのですが、確かに、インターネットというものに最初に触れたときには、「世界には、こんなにいろんな情報を発信している人がいるのか」という驚きがありました。そして、その多くが、「無償」であるということも衝撃でした。
 ここで糸井さんが書かれている「ジョホールバルに行きたかった商社マン」にアドバイスをしてあげた人というのは、たぶん、この「自分と同じ日本代表を応援している名前も顔も知らない人」のために、自分の時間を割いて、なんとか彼が現地で試合を観るための方法を調べ上げたのでしょう。もちろん、助言者はこういう旅行関係のプロなのかもしれませんが、それならそれで、彼は、お金になるかもしれないプロの知識を「同じサッカーファンのために」無償で提供しているのです。
 こういう書き込みに対して、今の僕なら「激しくガイシュツ」とか「教えて君はやめろ!」というようなリアクションをつい予想してしまうのですが、少なくとも一昔前のインターネットは「お互いネットをやっている人間だから」というような、不思議な善意というか、連帯感のようなものがあったような気もします。もちろん、「昔はいい人ばっかりだった」なんていうことは全くないのですが、「ネットをやっている」ということそのものに、ひとつの矜持を持っている人も多かったのではないでしょうか。

 僕は何のためにサイトをやったり、文章を書いたりしているのだろう?と考えることがあります。それこそ、1円にもならないどころか、諸経費を入れれは、明らかに赤字なのに。でも、この文章を読んで、なんとなく、そのひとつの「理由」がわかりました。
 僕は、「行き場のない『善意』みたいなものを、ここで発信しているのではないか」と思えてきたのです。
 やっぱり、人間として生まれてきたからには、誰かの役に立ちたいとか、感謝されるようなことをしたいという気持ちを抱えている人は多いのではないでしょうか?
 でも、そういう「善意」というのは、日常のなかで現実化するのはあまりに難しく、曖昧なものなのです。そもそも、自分でも「善意」なのかどうかよくわからないような感情だし。何か世界に対して言いたいことがあっても、実際に拡声器を持って駅前で演説をする勇気がある人なんて、そんなにいませんし、誰かを助けてあげたいと思っても、自分が助けるべき人、あるいは、自分にも助けられる人というのがどこにいるかなんて、なかなかわからないものです。それに、他人の「善意」を悪用する輩だって、けっして少なくないのだし。

 そんな、勇気が足りない、でも何かせずにはいられない「善意を持つ人々」にとっては、インターネットというのは、劇的な変化をもたらす「ツール」であり、僕がネットに魅かれていったのも、そういうもどかしさを発散させてくれたからだと思います。
 考えてみれば、ネットの「悪意」の象徴のようなイメージを持たれている「2ちゃんねる」だって、スレッドにもよりますが、その膨大な書き込みのなかには「誰かの役に立ちたい」という、無償の「善意」がたくさん含まれているのですから。

 現在のインターネットというのは、まさに、リアルワールドの縮図で、困った人もいれば、トラップを仕掛けてくる人もいます。
 でも、その一方で、「インターネットの善意」だって、絶滅してしまったわけではないのですよね、たぶん。

 あのころの「衝撃」は、失われてしまったのか、それとも、忘れてしまっているだけなのか?