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2005年03月12日(土) ■ |
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これが、石原都知事の「男の哲学」? |
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「ダ・カーポ」556号(マガジンハウス)の特集「本当の『男』の鍛え方」の中の石原良純さんのインタビュー記事より。
【「ぼくが幼い頃、父はよく逗子の海岸に走りに出かけていました。たまに付き合わされて一緒に走りましたが、その頃の僕には何が面白いのか全く理解できなかった。さらにぼくが大人になってからも、父は仕事先から家に帰る途中で車を降りて走って帰ってくる。そんなにしてまで走ることにどういう意味があるのか不思議でした。自分が30歳を過ぎた頃にようやくその意味がわかってきた気がします。父は自分自身と闘っていたのです。自分の老いと闘うことはもちろん、男は仕事や社会と闘っていかなければならない。それが石原慎太郎という人が子どもたちに伝えたかった哲学の一つだと思います」 と石原良純さんは語る。】
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『スパルタ教育』なんて著書もある、現東京都知事石原慎太郎さんを父親に持つ良純さんのこの述懐、読んだときの僕の率直な感想は、「えっ、だから何?」というものでした。いや、非常に申し訳ないんだけど、それはさすがにお父様を美化しすぎなのではないか、と。そんな、自分自身と闘いたかったら、最初から車に乗らずに走れよ!とか、そもそも、走る以外にもっとやることがあるんじゃないか?と思わなくもないですし。
ただ、この話からは、あの石原都知事も、「ひとりになりたい」とか「何も考えずに走りたい」と思うような、「弱さ」を抱えて生きているのだな、ということがうかがえるような気はするのです。そして、こうして「走る」という行為は、一見無意味というか、バカバカしいようにすら思えるけれど、石原さんにとっては、大事なストレス解消法なのではないかなあ、という気もします。
僕は本当に運動というやつが苦手&嫌いで、この年齢まで必要があるとき以外はなるべくタテのものもヨコにしないで生きてきたのですが、最近になって、体力の急激な低下を自覚していることもあり、イヤイヤながらも時々フィットネスクラブに行って自転車をこいだり、ウォーキングマシンで歩いたりしているのです。そんなの道路でやれ、と仰る向きもありましょうが、自意識過剰だから、なんだか恥ずかしいし、ジムの中ではテレビを観ながら自転車こいだりできるので、やりやすいのも事実。 それで、「こんなの時間のムダなんだけどなあ、本を読むためとかに時間使いたいよ…」とか思いつつ運動してみての感想なのですが、悔しいんだけど、やっぱり「身体を動かす」というのは、人間にとって、とくに僕のような慢性運動不足の人間には、いろいろとプラスの効果をもたらしてくれるのです。 夜は「眠る時間だから」ではなくて、ちゃんと「眠くなって眠れ」ますし、快食快便、そして、身体を動かすこと集中することで、日頃頭の中であれこれこねくりまわしていることによるモヤモヤとした感情が、なんだかスッキリするような気がするんですよね。僕はこの年まで、「頭で考えること」は「身体を動かすこと」よりも偉いことだと思い込んでいたけれど、実際には、「あたま」と「からだ」というのは、つながっているものであり、「あたま」というのは「からだ」の一部であるということを痛切に感じます。まあ、ちょっと三島由紀夫チックな話ではありますが、彼の場合はあまりに極端だったとしても、「身体性」というのは、「こころ」を考えるときには、無視できないことのように感じるのです。 そういえば、村上春樹さんもマラソンが御趣味でしたよね。
僕は、石原都知事は、「闘っていた」わけではなくて、むしろ「休めていた」あるいは「バランスをとっていた」のだと思うのですが、本当のところは御本人に訊いてみないとわかりません。 もしかしたら、こういうのって、本人も、その「理由」なんて考えてなくて、単に「走りたいから」だけだったりするのかもしれませんけど。
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