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2005年02月19日(土) ■ |
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夏目漱石『こころ』の読ませかた |
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「文豪ナビ・夏目漱石」(新潮文庫編)に収録されているエッセイ「『こころ』を、読もうとしているあなたに」(北村薫・文)より。
【《『こころ』を一冊読ませる時、こういう指示をする》という、ある先生の文章を読んだことがあります。 これには、とても感心しました。本来なら、その先生の名を記し、出典を明らかにしなければいけないのです。しかし、残念ながら覚えていません。 《ここに立ってごらん、ほら、こんな風景がくっきりと見えて来るよ》というのは、先生の仕事です。立ちやすく、立ちたくなる魅力的なポイントを発見するのが、優れた教師です。 その方はおっしゃいました。 『こころ』の「上」、作中の先生の家に行った学生――私は、お菓子を出されます。その残りを持たされます。 「上」の二十で、こう書かれています。
昨夜(ゆうべ)机の上に載せて置いた菓子の包を見ると、すぐその中から○○○○○○○○○○○○○○○○○を出して頬張った。
そして「中」の九では、私の死にかけた父親が、
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくちゃ」
といい、○○○を食べています。 この二つは、勿論、違うお菓子です。さて、何でしょう?というのです。 素晴らしい問いだと思います。だって、これなら知りたくなるでしょう。読みたくなるでしょう。勿論、漱石は意識して書いています。そういうことは、誰かがいっているでしょう。しかし、この《対比》を高校生の前に示し、《自分で確認しろ》ということが見事なのです。 わたし自身、小学生の頃、『次郎物語』という本を読んでいて、主人公がお金持ちの台所を覗くシーンが、強く印象に残っています。次郎は、そこに卵焼きがあるのを見て驚くのです。お正月でもないのに、と。 我々の子供時代にも、もう卵焼きは普通の食べ物でした。珍しいものではありません。しかし戦前の一般庶民には、卵焼きが大変な御馳走だった、と教えられたのです。】
参考リンク:夏目漱石『こころ』(青空文庫)
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僕もこの文章を読んで、あらためて夏目漱石の「こころ」を読み返してみました。本来は全文読むべきなんでしょうけれど、結局、この○○○の内容が気になってしまって、そこの部分だけ抜粋して読んだのですけど。 確かに、そう言われて読むと、漱石がこの父と子の対比、父親が「死」を口にしながら食べたがるお菓子と息子がなにげなく口に放り込むお菓子とのギャップを「狙って」書いていることがよくわかります。そういえば、僕の父親はよく「バナナを1本丸ごと食べるのが夢だった」という話をしていて、僕はそれを聞くたびに、「そんな時代もあったのだなあ」という感慨半分、「またその話かよ…」という、うんざりした気持ち半分で、それを聞いていたものです。何度も同じ話を聞かされているうちに、後者のほうがどんどん大きくなっていったのですが…… しかしながら、僕が小さかったころには、コーラ1本もそれなりに「大事に飲まなくては」というようなイメージがありましたし、プリンなんていうのも、プッチンプリンが「豪華なおやつ」だったのですから、コンビニで「本格デザート」が買える今の子どもたちに比べたら、やっぱり「世代間ギャップ」が存在しているのでしょうね。
もちろん、この「こころ」において、「食べ物に関する世代間ギャップ」というのは、メインテーマではなくて、一種の「彩り」にしかすぎないのかもしれません。でも、この先生が子供たちの物語への興味を引き出すきっかけとして、「食べ物」の話をしたのは、確かに上手い方法だなあ、と思うのです。たぶん、僕と同じような話をみんな親から聞いていて、感心したり辟易したりしていただろうから。そして、この○○○を確認するために「こころ」を読み始めたはずなのに、作品の魅力にハマってしまう子どもだって、きっといたと思います。「これは『文豪』の代表作で、素晴らしい作品だから」という価値観そのもののを提示されるより、よっぽど「どんな食べ物だったのか?」のほうが「気になる」でしょうし。
それにしても、実際に作品中で確認してみるとそんな驚くようなことでもないんですけど、逆に、そういうところにまでキチンと「伏線」が張られているというのは、やっぱり凄いことですよね。 僕が学生時代には、メジャーすぎて敬遠していたのですが、あらためて読んでみると、やっぱり「文豪」って凄い。
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