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2005年02月14日(月) ■ |
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あるいは、「絶望」より不幸な「ごくわずかな希望」 |
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共同通信の記事より。
【約20年前の自動車事故で脳を損傷して寝たきりとなり、意識もほとんどない状態が続いていた米カンザス州の女性サラ・スキャントリンさん(38)が、母親に「お母さん」と呼び掛けるまで意識が回復し「極めて珍しい」と医師や米メディアを驚かせている。 AP通信によると、スキャントリンさんは、大学1年生だった1984年9月、酒酔い運転の車にはねられて以降、ひと言も会話ができない状態が続いていた。 しかしことし1月になって突然言葉を話し始めるようになり、今月には「もっと化粧がしたい」と母親と会話するまでになった。 スキャントリンさんは、今が80年代で自分の年齢は22歳ぐらいだと信じており、家族が本当の年齢を伝えると驚いた様子だったという。】
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ある女性とその家族に起こった、「奇跡」のエピソード。 そういえば、手塚治虫先生の「ブラックジャック」にも、事故で意識を失った若者が、何十年かぶりにブラックジャックの手術で意識を取り戻す、という話がありました。その話では、その若者は意識を取り戻した途端にどんどん年を取っていき、「どうして僕をそっとしておいてくれなかった!」と叫びながら、老衰で死んでいく、という悲劇的なラストだったのですけど。
ただ、実際にこのような「意識が戻らない人」と接している家族や医療者からすれば、スキャントリンさんに起こった出来事を「奇跡」で片付けられてしまうのは、ちょっと不本意なのかもしれません。こうして意識が戻った陰には、関係者の長年にわたる努力があったわけですから。 一言で「20年」と言っても、「寝たきりで意識がほとんどない人」を20年間欠かさずに生かし続けるというのは、並大抵の苦労ではないでしょうし。そして、今現在でさえも、「快復のきざし」は見えていても、将来自立できるかどうかもわからない状態。
もちろん、こういう「奇跡」を目の当たりにすると、僕は家族の愛情の力や医学の力を信じたい気持ちになるのです。でも、その一方で、スキャントリンさんを20年間も支え続けた家族のことも、つい考えてしまいます。 これが「奇跡」であるならば、逆に、「奇跡を信じて、意識の戻らない家族をずっと介護し続けている、結果的には報われることのない人々」というのが、この美談の陰には大勢存在しているということになるのだから。 そして、その20年という時間は、家族にとっても「失われた時間」なのでしょうし。
起こる可能性が非常に低くても「奇跡」が起こりうるというのは、人間に希望を与えてくれる一方で(たとえば、宝くじなんていうのは、まさに「夢を買う」ようなものですよね。当選番号を確認した直後は、いつも「こんなの冷静に考えれば、中るわけないじゃないか!」と思けれど、やっぱりまた買ってしまうし)、その「希望」があるからこそ、あきらめきれない、という面もあるのです。「生きていてくれるだけでありがたい」という気持ちだってもちろんあるのでしょうけど、「奇跡」が起こるという希望がなければ、やっぱり20年間というのは、あまりに長すぎると思いますし。 そして、このエピソードを聞いて、さらに「奇跡」を信じる人たちが増えて、その結果、報われない思いをする人も増えるのでしょう。 宝くじに外れるくらいの失望ならそれほど深刻なものではないとしても、いつまでも意識が戻らない家族を抱えて、それでも「いつか回復するかも…」という希望を捨てられない状況というのは、残された人にとっては、長い目で見れば、むしろ辛い状況の場合もありそうです。 そういう意味では、あまりにもわずかな希望というのは、もしかしたら、絶望よりも人を不幸にしてしまうのかもしれません。
実際のところは、当事者にしかわからないことだとは思うのですけど……
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