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2005年01月16日(日) ■ |
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ブレーキの壊れた「日記書き」 |
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「文藝冬号」(河出書房新社)の俵万智特集での、俵さんと柳美里さんとの対談より。
(柳さんが『8月の果て』という作品について、「小さなお子さんを育てながら、よくこれだけ残酷なシーンを書けましたね。どうやってバランスを取ったんですか?」と何度もインタビューで聞かれたという話を受けて。)
【柳:うーん……どんな状況であれ、書くことにブレーキをかけたことはありませんね。書くことに限っていえば、ブレーキがないんだと思う。作中人物のモデルの女性から訴えられて、最高裁によって出版差し止めを命じられても……。
司会者:それは法律的な言葉に落とし込むのは難しいですよね。
柳」非常に難しいです。本心を言えば何もいいたくないんです。作品が全てですから、読んで判断してください、と。だけど法廷の場に引き摺り出されたら、読んでくださいじゃ済まされません。小説の中から一行一行取り出されて、「ここは名誉権の侵害で、ここはプライバシー権の侵害に当たる」とやられるわけで、それこそ一行一行、小説なんか読んだことがないかもしれない裁判官にもわかるように解説しなくちゃならない。最終的には憲法の中の言葉で対するしかないんですよ。で、「表現の自由」という言葉を盾にした途端に、「ペンの暴力だ」、「何を書いても許されると思ってるのか」、「表現の自由を振りかざして弱者を踏みにじった」というような話になるわけですよ。
俵:盾に対する、お決まりの矛ですね。
柳:でも、ブレーキは今もありません。書きたいことを書くというのとも違います。書かずに済むのなら書きたくない。でも書かずにはいられないんです。】
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柳美里さんの「石に泳ぐ魚」裁判については、以前こちらに書きました。
先日の「女性医師暴言サイト事件」に関して「それでは、どこまで書いていいのか?」という議論もあるようです。それに関しては、実際のところ、僕にはよくわかりません。明確なボーダーラインがあるのかどうか?
以前、椎名誠さんがエッセイの中で、彼の代表作である「岳物語」について、こんなことを書いておられました。「ある時、岳は、『もう自分のことを本に書くのはやめてくれ』と言ってきた。たぶん、自分のことが書いてある本のことで、友達に何か言われたりしたのだろう」って。 「岳物語」は、主人公(=椎名さん)と、その息子との心温まる交流を描いた物語なのですが、少なくとも大人になって僕が読んだ感想は、「いい親子だなあ」というもので、何も悪意は感じませんでした。もちろん、椎名さんにも「悪意」は全くなかったのだと思います。 その一方で、自分の友達が出ているという本に、小さいころの失敗談が書いてあれば、ちょっとからかってみたくなるのもよくわかります。そして、そう言うことに対してモデルになった子どもが「羞恥心」を感じであろうことも。 大部分の読者にとって「好感を持って」受け入れられた物語であっても、そのモデルにとっては、必ずしも歓迎すべきことばかりではないのです。時間が経てば、「書いておいてもらって良かった」と思うこともあるでしょうけど。
「ここまで書いてもいい」というボーダーラインというのは、実は、書き手のほうにあるのではなくて、書かれる側のほうにあるのではないかなあ、と僕は考えているのです。書き手のほうが「愛情を持って書いている」つもりの内容でも、書かれる側にとっては「自分が貶められている」と感じられることだってあるでしょうし、そもそも「そうやって人前にさらされること」そのものを受け入れがたく感じる人は、けっして少数派だとは思えません。書く前にネタになる人に対して了承をとっていれば別ですが、基本的には、「ここまでは書いていい」という線引きは、法律的には可能なのかもしれませんが、モラルとしての「線引き」があるとすれば「モデルの了解を得ないかぎりは、他人のことは書くな」としか言いようがないのです。 実際のところは、「モデルに了解を取って書かれた話」の大部分は、「単なる自己満足の美談」にすぎなくて、ガッカリすることも多いのですが。
もちろん「匿名である」とか「状況を変えて書いている」という配慮がされている場合も多いのでしょうが、だからといって、書き手の側が「これなら書いていいだろ!」というのは傲慢であるような気がします。 僕は柳さんという人は大の苦手なのですが、この最後のところの【書かずに済むのなら書きたくない。でも書かずにはいられないんです】という部分には、共感させられる面もありました。こうやってWEB日記を書き続けている人間というのは、やっぱり何らかの「書きたい衝動」を抑えられない人が多いのではないかという印象がありますから。
「ここまでなら書いてもいい」なんて声高に主張するより、「どうしても書きたいので、なるべく迷惑をかけないように注意しますから、お願いだから書かせていただけないでしょうか?」というのが、書き手の立場としては妥当な線なのではないかなあ。
いやまあ、印税がもらえるわけでもないこんな作業に、それだけの価値を見出せる人がどのくらいいるかは、甚だ疑問だとしても。 「他人を傷つけてでも、書く価値のあるもの」なんて、実はそんなに存在しないのではないでしょうか。それでも、書き手のほうは「自分基準」に頼ってしまって、そして、反響がないことに半ば調子に乗り、半ばヤケになって、暴走していくばかり。いつも自分が「書く側の立場」だとは限らないのに。
確かにあのサイトは酷いけど、ああいうサイトは、まだ日本にたくさんあるのです、きっと。
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