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2004年12月15日(水)
孤独感を「共感」してくれたって、何の救いにもならない。

「新ゴーマニズム宣言・第14巻〜勝者の余裕」(小林よしのり著・小学館)より。

(小林さんの秘書をされている、キシバタさんのコラム・「みな・皆・見な」の一部です。)

【一見、感情の赴くままに全速力で走り続けているように見えた先生(小林よしのりさん)ですが、秘書になり先生の想いや考えを聞くうちに、先生が抱える孤独感や虚無感といったものが見えてきました。それは多くの表現者が共通して抱く苦悩のようですが、大半の表現者はその苦悩と闘いきれず、逃げてしまうそうです。初めの頃、表現者ではない自分は、先生の孤独感を理解はできるけれども、共感することは一生できないだろうということが、無性に悔しく感じていました。しかし、そんな私に先生は、「お前の加護ちゃんのような無邪気な笑顔は、わしに明るさと希望を与えてくれる。その笑顔は天才的だ。孤独感や虚無感を共感してくれたって、わしには何の救いにもならない。」と言ってくれ、天才・岡本太郎を支え続けた女性の話を聞かせてくれました。それを聞いて、(加護ちゃんと言われようが、子供のように笑い続け、本当の信者になろう)と心に誓ったのでした。】

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 僕は「(少なくともプロの)表現者」ではないのですが、この小林さんの秘書の方の文章を読んで、「誰かを支える」ということの意味が、ちょっとだけわかったような気がしました。
 ちなみに、この「岡本太郎を支え続けた女性」に関する記述は【太郎氏を讃え 太郎氏に「ばくはつだ!」のポーズをさせ ポラを見てとびはねてミーハー少女のようにはしゃいで喜んでいた 太郎氏の理解者であり 世話係であり 信者である女性… やたら彼女の美しさがわしの心に残った…】というものでした。まあ、普通の人生を送っていれば、「信者」なんて人ができるということは、まずありえない話なんですけどね。

 人と人との付き合いのなかで、「あっ、その気持ちわかる!」というような「共感」というのはものすごく大事なことなのですが、その一方で、僕は「その気持ちわかる!」という人に対して、「わかってくれて嬉しい」という感情と同時に「本当にわかってる?」という疑念が心に浮かんでくるのも事実です。当たり前なんですが、僕は君じゃないし、君は僕じゃないから。
 実際、簡単に「わかる!」って言ってくれている人の中には、「自分で勝手に『わかっている』と思い込んでいるだけの人」っていうのは、けっして少なくないような気もしますし。とはいえ、「どうせ他人の気持ちなんてわからないよ」と開き直られてしまうのも、それはそれで寂しい。

 しかしながら、「共感」というのは、必ずしもプラスにばかり働かないのも事実です。ここで書かれているように、ネガティブな感情への「共感」というのは、ときには「一緒にズブズブと深みにはまっていくだけ」というような結果を生み出すことも多いから。小林さんの【孤独感や虚無感を共感してくれたって、わしには何の救いにもならない。】という言葉には、彼自身の実感がこもっているような気がするのです。そういう「ネガティブな感情への共感」というのは、必ずしも人を幸せにするものではなくて、むしろ「シンプルな応援」のほうが、元気ややる気を与えてくれることもあるわけです。
 実際、「孤独感を共有」してみたところで、「僕は孤独だ…」「そう、あなたは孤独、人間ってみんな孤独なのよね…」「そう、どうしようもなく孤独だ…」というようなネガティブ・スパイラルに陥ってしまうだけだったりして、結局、「2人でわかりあっているつもりになって、お互いに慰めあっている」状況になるだけで。
 「僕は孤独だ…」「何カッコつけてるのよ!さっさと仕事しなさい」というようなやりとりのほうが、「現実的な救い」になる場合も多くて、「なにもわかってないくせに、ケッ!」とかボヤきながら、けっこう気持ちが切り替えられたりするものかもしれません。

 現実には、同じひとりの人間でも「共感」してもらいたいときもあるし、「シンプルに応援」してもらいたいときもあるのだから、どちらが正しいというよりは、状況に応じて使い分けられれば、それがいちばん良いのでしょうけど。
 どんなに「その気持ちはわかる」と言ってみても、「共感」だけじゃ救われないんだよね、きっと。