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2004年12月12日(日)
そんなに騒ぎたければ、自分の葬式で騒げ!

「ああ、腹立つ」(阿川佐和子ほか、新潮文庫)の評論家・長山靖生さんのエッセイ「お義理で来るな」より。

【いくら出不精でも、葬式だけは失礼するわけにはいかない。ところが、葬式には人付き合いのいい人もたくさんやってくる。だいたい彼らは、愛想がいい。もっとはっきりいうと、口数が多い。ここぞとばかりに弔問外交を展開したり、旧交を温めたりする。葬式は久しぶりに懐かしい顔と会う機会でもあるから、下手をすると、同窓会の様相を呈する。「おお、元気だったか」「この後、暇か」などという大声がホールに響く。耳が御不自由になってきているのか、やたらでかい声の人もいる。「お元気で何より」と笑ったりする。ご遺族に聞こえはしないかと、はたで心配になるほどだ。

(中略)

 ある葬儀(私には大恩ある方だった)で、ずっと大声で話している夫婦がいた。葬儀の後、競馬に行くつもりらしく、その予想やら、花輪の数やら、誰が来ているだの、「読経が長い」「何時終わるのかしら」などと言い合っていた。聞き耳を立てていたわけではないが、話はよおーく聞こえた。いい歳をした夫婦である。「騒ぎたければ自分の葬式で騒げ」と言いたかったが、とうとう言えなかった。こちとらはシャイなのである。
 しかし心の名かでは叫んでいた。お前らなあ、少しは出不精になれよ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 よく、「葬式を見てみないと、その人の真価はわからない」なんて言いますよね。そして「自分の葬式をみてみたい」という人も多いのではないでしょうか?どのくらいの人が本当に悲しんでくれるのか、というのは、自分の思い込みとはだいぶ違っていそうな気もしますし。
 それにしても、僕自身もこの「葬式でのマナーの悪さ」というのに閉口する機会は、けっこうあるのです。ほんと、遺族側からすれば、「それ、聞こえてますよ」というような不躾な言動をする人というのは、けっして少なくはないのです。それも、若い人だけではなくて、かなりご年配の方まで。
 まあ、葬式が同窓会みたいになってしまうのは、けっして悪いことだけではないですし、故人の思い出話を集まった人々がしているのは、ある程度「寿命による死」だった場合には、かえっていい供養になるのではないかな、なんて思うこともありますから。
 実際、僕が弔問させていただくときにも、「読経が長いなあ」なんて考えることもあるし、お焼香を済ませて一歩外に出ると、不謹慎ながら「これから何食べようかな…」なんてすぐに悩みはじめたりもするものだから。だからといって、そういう自分の気持ちを式場で表に出すことは、絶対にありません。それは、最低限の礼儀のはずだから。
 葬式という場にいると、イヤでも「自分の順番」なんてことが頭に浮かんできて、それを払拭したくなるから、かえって「ご年配の方」のほうが、明るく(悪く言えば傍若無人に)ふるまっていることが多いのかなあ、とも思うんですけどね。
 遺族としては、そういう「同窓会の人」たちはそれほど実害はないのですが、会場で「故人の噂話」とか「遺産が…」とか「嫁と姑の仲が」とかいうような話をしたがる人(信じられないことに、遺族に直接そういうことを聞く人までいるのです!)というのは、本当に腹が立ちます。「亡くなった理由」を尋ねられて、「そうですか、癌で…私も気をつけなくっちゃ…」って、どこからそういう結論に達するのか、僕には全然わかりません。故人は気をつけてなかった、とでも言いたいのかよ。

 こういう、「仲良くもなかったのに弔問に来る人」とか「つきあいもないのに年賀状を出す人」なんていうのは、どうも「そういう儀礼的なことが好きな人」がけっこうな割合を占めているようです。逆に、「葬式に参列しているからといって、故人への弔意を持っているとは限らない」とも言えるわけで、単なる「善意の押し付け」みたいなことも多いんですよね。で、家に帰って「あの家は、弔問に来てやったのに、お茶も出さない」とか。
 まあ、確かに「お義理で」で出席しなければならない冠婚葬祭の席というのは存在します。でもね、自分がそうだからといって、本当に悲しんでいる人たちの邪魔をするようなことは、やめましょうよ。黙って焼香だけして帰ってくればいいのに。

 葬式というのは、「故人に弔いの気持ちを伝える場所」であって、「自分が弔意を持っていることを生きている人にアピールする場所」じゃないんだからさ。