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2004年11月27日(土)
英語が通じないイギリス、英語が通じるフランス

JRA(日本中央競馬会)の広告記事での、武豊騎手とF1レーサー・佐藤琢磨さんとの対談より。(11/23に読売新聞掲載分)

【インタビュアー:海内へ出て苦労した点はどんなところですか?
佐藤琢磨:僕は明確な目標があったので、慣れない土地での不自由な生活も、逆に目標に集中できてよかった。
武豊:2000年に騎乗の拠点をカリフォルニアに移したことがあって、その時は言葉の壁に悩みました。2001年には拠点をフランスに移したんですが、まだマシでした。フランス人は外国人がフランス語を話せるわけがないと思っているので、お互い片言の英語で会話して…。言葉の面ではイギリスが一番きつい。
佐藤:イギリス人は、世界中の人が英語を話せると思ってますから(笑)。
武:そうそう、えっ、話せないの?!という感じで(笑)。レース面では、海外では注目されていないので気楽でした。その分、周囲の対応が悪かった。なめられないよう、きつい乗り方をしていたら対応が変わりました。
佐藤:きつい乗り方って?
武:譲らない、引かない、押されたら押し返す、強気で制す。佐藤さんの走りも強気だよね。ヨーロッパGPでフェラーリのバリチェロとやりあってたし。
佐藤:挑戦して攻めていかなければチャンスはつかめない。それで接触しても、正しいと思ったことならひるむことはないですよね。】

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 世界をまたにかけて活躍する2人の対談、非常に興味深く読ませていただきました。考えてみると、競馬とF1などのモータースポーツには、ある共通点があるのです。それは、「競技者本人の力だけでは、勝負に勝てない」という点。もちろん、水泳とか陸上とかの「競技者本人の実力」がクリアに反映されそうな競技ですら、トレーニング環境とか用具とかで、どうしても差が出るものではあるのでしょうが、競馬やモータースポーツで勝つには、どうしても「強い馬に乗ること」や「速いマシンのシートを得ること」が必要とされるのです。いくらミハエル・シューマッハでも、三輪車では僕が乗る自動車より速く走ることは不可能でしょうから。一般的に、これらの競技では、「実力のある騎手、あるいはパイロットに、いい馬や車が集まる」のですが、それとは別にスポンサーの意向であるとか、それぞれの選手や関係者の「政治力」みたいなものも要求されるのです。そういう点で、彼らには「日本人である」ということによって支援を受けられる面もあれば、不利な面もあるんですよね。
 この武さんのインタビューに出てくる「カリフォルニアとフランスでの言葉の壁」を読んで、僕は留学経験者の先輩の話を思い出しました。「英語が得意」だったはずの先輩は、現地で仕事をする上で、やっぱり言葉の壁に最初は悩まされたそうです。
 「だって、『お客さん』に対して話すときと、スタッフの一員として話すときとでは、全然話すスピードが違うし、こっちがわかっているかどうかなんて、いちいち確認してもくれないから、慣れるまでは相手が何を言っているのかわからなくて、本当に辛かった」とのことでした。そういうときには、同じアジアから来ている留学生の人たちが、すごく親切にしてくれたそうです。彼らも、同じような経験をしていたから。
 英語というのは、ビジネスや学問の世界では「世界共通語」という認識をされていますから、「喋れないほうが悪い」というような感じなんですよね。僕たちとしては、今さら他の言語が世界征服をしたり、エスペラント語の復活を望んでもしょうがないので、それに適応していくしかありません。
 彼らが「言葉の壁」に悩まされずに学会で発言したり、論文を読み書きできるのには、羨ましいのと同時に、「あいつらは英語圏で生まれたってだけじゃないかよ、ケッ!」とか内心毒づいてみたりもするのですけど。
 ちょっと観光客として「聞こうとしてくれる相手」と話すには、日本人にとっては英語圏は比較的ラクなところなのですが、この武さんの話のように、「普通にパートナーとして接する」場合には、かえってハードルが高くなってしまう場合もあるようです。むしろ、お互いに片言英語のほうが「相手の話を聞こうという姿勢」があるだけ話が通じやすかったり、親近感もわきやすいみたいで。ほんと、英語圏の人々に対しても「お前らも少しは日本語を学ぶ努力をしてみろよ」とも思うのですが。
 ただし、日本に短期免許で乗りに来る外国人騎手たちは、みんな日本語を学んだり、日本のファンや関係者に一生懸命アピールしています。ちゃんと相手の文化に敬意を表しているのです。「一流」というのには、そういう姿勢も含まれるのかもしれません。
 そうそう、このインタビューからわかるもう一つのことは、「お行儀良くしていたり、つつましくしていたら認められず、強引にでも自分の力を誇示してみせないと一目置いてくれない文化というも存在するのだ、ということです。「なめられない」ためには、「礼儀」よりも「力」がないと難しいのかな、やっぱり。それとも、勝負の世界では、「力」こそが「礼儀」なのだろうか。