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2004年10月12日(火) ■ |
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「賢者の贈りもの」の喜びと難しさ |
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「泣く大人」(江國香織著・角川文庫)より。
【贈り物は素敵だ。贈るのも、贈られるのも。とくに冬のそれは素敵。心があたたかくなるから。 子供のころ、お中元やお歳暮をだしにいく母についていくのも好きだった。 お元気ですか、という挨拶。私はあなたを憶えていて、気にかけていて、あなたのことをおもっています、というしるし。 現実の贈り物だけじゃない。本のなかの贈り物のシーンにも、いつも胸が躍った。若草物語にも足長おじさんにも、大きな森の小さな家にもやかまし村のシリーズにもそれはあって、どの場面も実にわくわくして読んだ。 私が結婚してよかったと思うことの一つも贈り物だ。奇妙なことに、私は男の人に贈り物をするのが極端に苦手で、もともと贈り物が好きなだけにそれは困ったことだった。たぶん自意識が過剰なのだろう。身につけるものを贈るのは馴れ馴れしすぎる気がするし、食器や鞄や煙草入れはもっと馴れ馴れしい。相手の生活に自分をわりこませるような気がする。本やCDと言った趣味のものは、相手の好みを知っていればなおのことさしでがましい気がするし、結局、食べ物か飲み物か花、つまりいずれなくなるものしか贈れないのだった。(さんざん考えたあげく、美しいみどり色の小さな雨ガエルをつかまえて、ママレードの入っているびんに入れて贈ったこともある) 恋愛関係にある異性に物を贈るというのはある種の束縛のような気がするのだけれど、結婚して思った。このひとには何を贈ってもいいのだ!赦されている。下着や靴下だって。コートや鞄だって。それはとても嬉しいことだった。とても嬉しい、とてもほっとすること。 最近いただいた贈り物で幸福だったのは詩。それから言葉を添えたワインのコルク。】
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「他人に贈り物をするのが好き」という人は、実際はけっこういるのかもしれません。僕だって、誰かに何かをあげて、喜んでいる顔を見るのは好きですし。でも、「贈り物好き」と「贈り物上手」の間には、けっこう深い溝があるのも事実でしょう。 たとえば、子供のころの友達への誕生日プレゼントというのは、今から考えたらものすごく気楽なものです。なんといっても、予算が限られているし、ワインのコルクというわけにもいかないでしょうから。もっとも、それは今から考えたら、という話で、当時はそれでも四苦八苦していましたけど。 僕は以前は、「贈り物は形として残るものがいいなあ」と思っていました。食べ物なんてのは、「食べればなくなってしまうもの」だから、あげる側としては、あんまり面白くないな、って。 でも、大人になって考えると、贈り物というのは「無くなってしまうもの」のほうが、いいのかもしれない。昔好きだった人にもらった小物を見てせつなくなったりするのは、ある種の呪縛でもあるわけだから。 とっておくほうも、保存する苦労、無くしてしまったときの申し訳なさ、というのもあるでしょう。食べ物のような「消えもの」であれば、「美味しかった」で、丸くおさまりますし。 それでも「相手の心に残るような贈り物をしたい」というのは、好感を抱いている誰かに何かを贈るときには、少しは頭をかすめるものです。
江國さんは、「結婚してしまえば、相手に何でも贈れるから嬉しい」と書かれています。確かに、そういう一面もあるのですね。 誰かに何かを贈るときに、つりあい」みたいなものを考える人は多いはずです。相手と自分の現在の立場や経済力とか、好感度とか。 たとえば、男性が女性に下着を贈るというのは、やっぱり「そういう関係」でないと「この人、何考えてるの?」と思われるでしょうし、いきなり高級外車とかプレゼントされたら、そこに何かの「意味」を相手は感じるでしょう。もちろん「もらうだけもらって、また後で考える」という人だっているかもしれないけど、多くの場合は、贈り物の質と量というのは、「束縛」にもつながります。あんまりよく知らない(あるいは興味がない)異性から、高級ブランド品をいきなりプレゼントされたら、喜ぶ人より、引いてしまう人のほうが多いのではないでしょうか? 大概の場合、贈るほうも「相手が喜んでくれて、なおかつ相手に気を遣わせすぎないようなもの」を選ばなくてはならないから、気苦労が絶えないのです。 そういう意味では、「何を贈っても『束縛』とか考えなくていい結婚相手」というのは、確かに贈り物好きには、得難い存在なのでしょうね。 でも、高価なプレゼントとか買ってきた日には、「そのお金は何処から出てるの!家計も苦しいんだから、返してきて!!」とか言われないとも限らないとは思うんだけどなあ。 だからといって、雨ガエルとか詩なんてのは、自分が受け取る立場だったら、限りなく「微妙な贈り物」だろうしね。
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