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2004年09月25日(土)
「永遠」という言葉の魔力を超えて。

「永遠の出口」(森絵都著・集英社)より。

【私は、<永遠>という響きにめっぽう弱い子供だった。
 たとえば、ある休日。家族四人でくりだしたデパートで、母に手を引かれた私がおもちゃ売場に釘づけになっている隙に、父と姉が二人で家具売場ををぶらついていたとする。
「あーあ、紀ちゃん、かわいそう」
 と、そんなとき、姉は得意そうに顎を突きあげて言うのだ。
「紀ちゃんがいない間にあたしたち、すっごく素敵なランプを見たのに。かわいいお人形がついてるフランス製のランプ。店員さんが奥から出してきてくれたんだけど、紀ちゃんはあれ、もう永遠に見ることがないんだね。あんなに素敵なのに、一生、見れないんだ」
 永遠にー。
 この一言をきくなり、私は息苦しいほどの焦りに駆られて、そのランプはどこだ、店員はどこだ、と父にすがりついた。おもちゃに夢中だった紀子が悪いと言われても、見るまでは帰らないと半泣きになって訴えた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も「永遠」という言葉にめっぽう弱い子供でした。
 僕の場合は、「永遠至上主義」みたいなものでしたけど。
 例えば、ある2つの国が戦争をしていたのに、とりあえず停戦が決まったとします。「でも結局それって『永遠の平和』じゃないんだから、意味ないよね」というような、そんな子供。
 あるいは、「永遠でない恋愛など、ニセモノだ」と固く信じている、そんな子供。
 いや、そういうものの考え方って、「子供の頃」に限定されず、大学時代くらいまでは抜けていなかったような気がします。
 大学を卒業したときに、遠く離れた誰も知り合いがいない土地に、恋人を追いかけていった女の子がいました。
 僕は彼女のその決断に尊敬の念を抱き、「うまく言ってほしいな」と思っていたのですが、それから何年かして彼女から届いた年賀状には、彼女が「すべてを捨てて追いかけた男」とは全く別の人が、ウエディングドレス姿の彼女の隣に写っていたのです。
 「せっかく追いかけていったのに、人間の愛情なんて『永遠』ではないんだな」と、当時まだ20代の半ばくらいだった僕は、軽い失望を感じたものです。
 今の少しだけオトナになった僕からみると、きっと「追いかけていったときの彼女は、それだけ相手の男のことが好きだったんだな」と思いますし、その後の「心変わり」というのは、「そういう結果でも、追いかけていった瞬間の気持ちはウソではなかったのだろうし、それだけ誰かを好きになったというのは、けっしてマイナスではない」と考えるのですが。
 そう、後からみれば「一時の感情」でも、そのときは「そうせずにはいられなかった」という「必然的な行動」だったということは少なくないし、それを結果だけで「ムダ」だと判断することにもできないでしょう。
 「永遠」じゃなくても、「正しいこと」「仕方がないこと」は、たくさんあるのです。

 「永遠の平和」とか「永遠の繁栄」とか「永遠の愛情」とか、そういうのはある種の「幻影」なんだろうな、と今の僕は思います。
 「永遠の愛」というのは存在しなくって、添い遂げたカップルだって、「愛情の寿命」に至る前に、生物学的な寿命が来てしまっただけなのではないかな、とか。
 ただ、それは悪い意味ではなくて、「『永遠』なんて気が遠くなりそうな幻想に縛られて「オール・オア・ナッシング」になってしまうより、一時的なものかもしれないけれど、とりあえず「今日1日の愛情や平和」を1日1日積み重ねていくことのほうが大事なのではないか、という実感なのです。
 
 そもそも、人間に「死」があるかぎり「永遠」というのは、現実にはありえないからこそ、こんなに魅力的なのかもしれません。僕にとっては子供の頃の「永遠病」は、生きていく上で必要な時期だったのではないかな、とも思っているんですけどね。
 「永遠」がないからこそ、向上心や謙虚さや優しさが人間にはあるのかもしれないし。