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2004年09月16日(木) ■ |
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「シシュポスの巨石」と「死という刑罰」 |
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「私のギリシャ神話」(阿刀田高著・集英社文庫)より。
【ギリシャ神話では冥界の一番奥深い底にタルタロスと呼ばれる無間地獄があって、最悪の罪を犯した者が、ここで永遠の苦痛に苛まれている。 (中略)
そしてシシュポス。シシュポスは、ゼウスの恋を告げ口によって妨害し、そのとがで地獄へ送られるや今度は冥界の王ハデスを騙して生き返らせるなど、いくつかの悪事を犯してタルタロスへ落とされた。
(中略)
それはともかく、シシュポスが受けた刑罰は……タルタロスにある丘の頂上に巨石を押し上げねばならない。全力を尽して急な坂を押し登り、いよいよ頂上と思ったとたん、巨石はゴロゴロと転がり落ちて、もとの地点へ。そこでまた押し上げる。永遠なる労苦のくり返し。こうして見ると、タルタロスの刑罰は、苦しみが永遠に続くことに特徴がある。確かに、この”果てしなく続く”という点にこそ、苦しみの本当の苦しさがあると言ってよいだろう。】
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この「シシュポスが受けた刑罰」の話、僕は子どものころにどこかで知って、「なんて恐ろしい刑罰なんだ…」と思った記憶があります。この本で読みなおすまで、そんな目にあっているのがシシュポスという神で、こんな刑罰を受けた理由が「恋の妨害」だったなんてことは、すっかり忘れていたのですが。 生きている多くの人々は、辛いこと、悲しいことがあったときに「こんな目にあうのなら、死んだほうがマシだ」なんて思ったことが一度くらいはあるのではないでしょうか?もちろん、僕にもあります。 僕も含めてほとんどの人は、そんな感情を抱きつつも、自ら「死」を選ぶことはなく、時間とともに傷は癒されていきます。次の辛いこと、悲しいことが、いずれはやってくるとしても。
僕は、これを読んでいて、こんなことを考えてしまうのです。 「この世に、『死刑より辛い刑罰』というのは、存在するのだろうか?」と。 「死ぬより辛い目にあわせてやる」とかいうけれど、「死ぬ」というのは別次元なのではないかという気がするのです。 大部分の現代人にとっては、「死」というのはイコール「無」と解釈されていると思われます。 「死ぬこと」というのは、「すべてが無くなること」であり、「無くなってしまったことすら感じられなくなること」なのです。
「それなら、生きて辛い目にあうよりは、死んで何もかも無くなってしまったほうがマシなんじゃない?」 確かに、そういう考え方もあると思うし、その発想を自分に対して実行する人は後を絶ちません。僕はそういう選択はしてもらいたくないけれど、それを一概に否定できるほどの根拠を持っていないというのも事実。
でもね、僕はこんなふうにも思うのですよ。 シシュポスは確かに辛いだろう。しかし、それは「死ぬよりつらい」のだろうか?って。 正直、今の僕にとっては、「自分がこの世から無くなってしまって、そのことすら自分でもわからなくなる」というのは、ものすごく怖いことです。 「ずっと巨石を転がし続けるのは、確かに辛いだろうな」とは思うけれど、それでも「死ぬより辛い刑罰」なのかどうかは、正直よくわからないし、巨石を転がしながらもいろんな考え事をしたり、楽しかったことを思い出したりすれば、それはそれで生きてて良かった、と思う瞬間だってなくはないだろう、とも考えるのです。 死んでしまったら、そういう心境になることは、絶対にありえないわけですし。 生きていれば、どんな状況下でも、パンドラの箱に最後に残った「希望」というのを持ち続けることだって、けっして不可能ではないはず。
「死より辛い刑罰」というのは、果たして存在するのでしょうか? もちろんそれは、受ける側の感覚的なものもあるだろうし、人それぞれなのかもしれません。 でも、僕はやっぱり、「死ぬこと以上の刑罰というのは、少なくとも文化的・文明的であることが前提条件の社会では、存在することは難しいのではないか?」という気がしています。 それとも「生きる」ということ自体が、この「シシュポスの刑罰」みたいなもので、「死」というのは「救い」なのだろうか…
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