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2004年08月17日(火) ■ |
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カーテンコールの拍手が聞こえないように |
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「三谷幸喜のありふれた生活3〜大河な日々」(三谷幸喜著・朝日新聞社)より。
【千秋楽のカーテンコール。僕はステージには上がらなかった。舞台上でお客さんの拍手を浴びるのは、実は悪いものではない。そこに至るまでに経験した幾多の苦労が、充実感へと昇華する瞬間である。 しかし最近思うのだ。僕は誰のために芝居を作っているのだろう。すべての人を笑わせるコメディーなんて作りようがない。だから、僕は稽古場では、お客さんのことを念頭には置かない。自分がまず面白いと思うものを作ろうと考える。それから、その作品に関わったスタッフとキャストが喜んでくれるものをと考える。観客のことを考えるのは三番目だ。そんな僕にお客さんの拍手を浴びる資格はないのではないか。 去年(二〇〇二年)、自分の作品の千秋楽が二本重なったとき、僕は両方のカーテンコールに出た。どちらの拍手も温かかった。でもその時、気づいたことがあった。この拍手は諸刃の剣なのだ。幸い今は、自分が面白いと思うものと、お客さんがそう感じるものが、あまり離れてはいない。しかしこの蜜月がいつまで続くというのか。笑いに関する僕の感性とお客さんの感性にずれが生じてきた時、千秋楽の幕が下りて客席から聞こえてくる拍手の音が、力のない儀礼に変わる。それを聞いてきっと僕は平静でいられなくなるに違いない。もっと大きな拍手が欲しいと思った時、僕は僕が本当に作りたいものが作れなくなる。だからそれを最後に僕はカーテンコールに出るのをやめることに決めたのだ。】
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僕は当然「拍手する側」なのですが、がんばって作り上げてきた舞台の上で、万雷の拍手のなかで喜んでいる観客の顔を見るのは、ものすごく幸せな体験だろうな、ということは想像できます。表現する側にとって、あれはまさに「至福のとき」なのではないかな、と。 でも、三谷さんは、それを自らシャットアウトする道を選んでしまたのです。 【幸い今は、自分が面白いと思うものと、お客さんがそう感じるものが、あまり離れてはいない】もちろん、三谷さんは三谷さんなりに、「自分が面白い物をお客さんにうまく伝えるための努力」は、されてきたのだと思います。それでも、ある種の「運」というか「時流」みたいなものがないと、表現者というのは世間に受け入れられるのは難しいのでしょう。 そして、三谷さんも「観客に拍手をもらうために、自分を見失ってしまった表現者」をたくさん知っているのではないかなあ。 もちろん、「観客の求めるものを提供してみせるのがプロだ」という考え方もあるのでしょうし、そういう意味では、三谷さんは「プロ意識に欠ける」のかもしれません。そして、本当に意志が強い人間なら、「観客の拍手に熱意がなくなっても、そんなものに影響されずに自分の作りたいものを作る」ことだってできるはずです。
まあ、僕のようなしがないサイト管理人ですら、「たくさんの人に読まれたい」「反応が欲しい」なんて思うと、ついつい「みんなが知っているような芸能ネタ」とか「下ネタ」を書きたい衝動に駆られますし、実際にときどきは書いてしまうくらいなのですから、三谷さんクラスの反響の大きな作家となると、「影響されないためには、なるべくリアクションを遮断するようにする」しかないのかもしれません。また、そういう三谷さんが自覚している「人間というものの弱さ」みたいなものが反映されているのが、三谷作品の魅力でもあるのでしょうし。
その一方で、「リアクションを遮断する」という行為は、「ひとりよがり」の危険性を孕んでいることも事実なので、そういうバランス感覚は、とても難しいことなのでしょうけど。
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