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2004年08月13日(金) ■ |
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”偶然”など存在しない世界 |
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「月下の棋士・文庫版」(能條純一著・小学館文庫)より。
【「それじゃ…滝川君!!キミは、あのポカを…ぼくの実力とでも言うのか!?」 「そこまでは言ってません……しかし…」 「しかし!?」 「将棋においてのミスは、必然性があってのこと……あなたが”武者小路和清”である限り……今日、あの時間にあのミスを、必ず私の前で犯していた……」 「滝川君!!何が言いたいのだ!?きみだってぼくの実力をわかっているだろ!!偶然だよ、偶然!!あの一手は、魔が差しただけなんだ!!」 「将棋界に”偶然”など存在しない……」 「な、何が……存在する!?」 「宿命なら……ある。」】
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ライバルであったこの二人ですが、「宿命なら……ある。」と言ったほうの滝川は、この6年後に棋士の頂点である名人位に就くのです。 人間生きていればやっぱり「人生の後悔ポイント」のひとつやふたつはあるものだと思いますし、「もしあのときに戻れたらなあ…」なんて回想する場面を全然持たない人間は、多分少数派だと思います。 世の中には、「選択肢の数だけ、その人の未来は枝分かれしていて、それぞれパラレル・ワールドがある」という考え方もありますし、マンガ「ドラえもん」のひみつ道具人気ランキングで、自分の想像上の仮想の世界を実現できる「もしもボックス」というのが常に上位にランクインするのも、そういう「自分が選べなかった選択肢」に対する憧れに起因するものだと思います。
でも、その一方で、僕は今までの人生において、「その時点における自分にとってのベストチョイス」をやってきたような気がするのです。 残念なことに、それらはすべてベストな結果をもたらしてくれたわけではないのですが(それどころか、ワーストの結果さえしばしばもたらしています)、もしその瞬間に戻れたとしても、僕は結局同じことをして、同じ人生を歩んできたのではないでしょうか。 もちろん、結末を知っている現在の僕が、このまま当時の僕と入れ替われるなら話は別ですが、おそらく「未来の自分がアドバイスしに来た」という程度では、やっぱりその選択の大部分は、「そんなの嘘に決まってる!」ということで、当時の自分が選んだものと同じになると予測されます。 「魔が差す」ことだって確かにあるでしょうし、野球で言う「ブルペンエース」みたいに、「実力はあるはずなのに、試合で発揮できないタイプ」という人は確かに存在するみたいです。 ただ、そういうのは「試合で実力を出せない」のではなくて、「試合で結果を出せないというのが実力」であるとも考えられます。 ほんとうの「実力」がある人たちは、もちろん結果を残しているから、そういうふうに評価されているわけですし。
もっとも、僕も「ブルペンエース系」の人間なので、こういう話は本当に気分が暗くなるんですけどね。 それでも、いや、だからこそ「魔が差す」ことがなるべく少なくなるように、気をつけていきたいとも思うのです。 よく考えてみたら、この「魔が差す」ほど意味不明で理不尽な「理由」ってないような気がしますし。
「人類は進歩している」のか「人類は同じことをただ繰り返している」のか? そして、僕が僕である限り、過去も未来も変えることはできないのではないか?
とりあえず、何が起こっても「魔が差した」なんて他人に言い訳をするのは止めて、これから生きていきたいものです。
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