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2004年07月10日(土)
耳せんと「カクテルパーティ効果」

「週刊ファミ通・2004/7/16号」(エンターブレイン)のコラム「桜井政博のゲームについて思うこと」より。

【じつはわたくし、いままで難聴気味で困っておりました。なんと言っても聴き間違いが多い!

(中略)

 生まれてこのかた、わたしに多くのギャグとピンチを提供してきたこの耳ですが、このたび意外な改善策が見つかりました!その方法はなんと!意外にも、”耳せんをすること”だったのです!
 ……えー。という声が聞こえてきそうですね。耳が聞こえないのに、わざわざ耳せんをして音を聞こえにくくするとは。だけど、耳せんをすると、人の声が小さく感じられる反面、確かに聞き取りやすくなるんです。こりゃ不思議。
 現実世界には非常に多くの音が入り混じっているわけですが、人の耳は、その中の雑音をフィルターし、必要な人の会話を認識できるようです。専門的には”カクテルパーティ効果”と言うらしいですが。だけどわたしの場合、空調音や冷蔵庫、店内放送、パソコンやファンの音などの雑音が耳を突き、ひとりうるさがっていることがしばしばありました。同じ場所にいた友人知人などはあまり気にしていなかったようですが。つまり、関係ない音を耳せんで小さくすることによって、声がより浮き出て聞こえるようになったということらしいのです。わたしの脳は、雑音をフィルターする機能がいまひとつのようですね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 桜井さんのコラムは、このあと「いろいろな人の話を聞いて、お互いに折り合いをつけすぎてしまうと、かえって「貫くべきコンセプト」が失われて完成した作品が散漫で没個性なものになってしまうことがある、とまとめられています。工業製品ならともかく、創作としては「折り合いをつける」ということには、マイナスになる面が大きいのではないか、と。

 まあ、創作に限らずとも、あまりに周りの意見に対して公平であろうとしたり、万人ウケすることを志向したりすると、結局のところ「何もすることができない」という状況になることってありますよね。
 あちらを立てればこちらが立たず。
 MR.CHILDRENの「イノセント・ワールド」という曲に「さまざまな角度から物事を見ていたら、自分を見失ってた」という一節があるのですが、まさにそんな感じで。
 もちろん、独善的になってしまうことは、けっしていいことではないのですが、周りが気になりすぎてしまうタイプの人間にとっては、ときには「耳せんをする」というのも必要なことなのかもしれません。いろんなことに耳を傾けているつもりで、ノイズばかり拾って混乱してしまっていることって、けっこう多いのかも。
 もっとも、どれが「人間の会話」で、どれが「ノイズ」なのか、実際はなかなか判断が難しいんですよね。肝心の音が聴こえなくなってしまうような「耳せん」をしている人も少なくないようですし。

 それでもときには、勇気を持って「聴かない」ことも必要なのでしょう。聴かないことによって、はっきり聴こえてくる音だってあるはずだから。
 まあ、露骨に耳せんをしてみせるのはトラブルの元なので、相手には「聴いているふり」をしないといけないこともあるんですけどね。