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2004年06月22日(火)
楽しく生きるために守るべき二つのこと

「アヒルと鴨のコインロッカー」(伊坂幸太郎著・東京創元社)より。

【「ポジティブに考えたほうがいいって」わたしは偉そうに、助言などをしてみた。
「琴美なら、死ぬ瞬間にも前向きなことを考えそうだな」
 わたしは人差し指を立てる。「楽しく生きるには二つのことだけ守ればいいんだから。車のクラクションを鳴らさないことと、細かいことを気にしないこと。それだけ」これは日頃から、ドルジにも言っていることだった。
 ブータンでは車がとにかくクラクションを鳴らすらしいのだ。運転も乱暴だし、騒々しい、とドルジから聞いた。クラクションのあの音は、人間が発明したものの中でもっとも不要なもののひとつだと、わたしは確信している。】

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 車を運転しているときには、人格が変わるひとっていますよね。日頃温厚なイメージだったのに、遅い車を煽ったり、ジャマな歩行者に舌打ちしたり…
 車というものに守られていると、人というのは強気になったり、本性が出たりしがちです。でも、僕は「日頃元気いっぱいなのに、車の運転席に座ったとたんに大人しくなる人」というのをあまり見たことがありませんから(とくに男性)、車というのは人間を強気にさせがちなものなのかもしれません。
 まあ、確かにピストルを持っている人が気が大きくなるように、車に乗っているかぎりは僕だって丸腰の小川直也にも負けませんから。もちろん、ぶつかって相手が生きてたら後が怖いですけど。
 大型トラックの運転手が横暴な運転で一般車両を脅かすみたいに、「事故を起こしたら後からとんでもないことになる」というのを頭で理解していても、人間というやつは「ぶつかっても自分は死なない」というような状況だと、ついつい自分の優位に浸りたくなるみたいです。

 そもそも、あのクラクションというのは、何のためにある機能なのでしょうか?「警笛区間」という、視界の悪いところで、お互いの存在を確認するというのが本来の役割であって、別に他人を脅かしたり、自分が怒っていることをアピールするためのものではないはずです。
 それなのに、世間には「無意味なクラクション」を鳴らしたがる人というのは、けっこう多いんですよね。「そんな運転するんじゃない!」という怒りのクラクションや、渋滞で苛立ってのクラクション。
 しかし、考えてみてください。僕もそうなんですが「運転が苦手な人」にとって、後ろの怖そうな車にクラクションを鳴らされるほど動揺することはありません。「早く行かなくちゃ…」なんて気も焦ります。そんなの、かえって事故のもとじゃないですか?自分より運転の下手なドライバーの車は、事故を起こしても構わないんですか?
 要するに、そんなクラクションは自分の苛立ちをぶつけて他人を困らせたり不快にさせたりするだけで、交通安全にとっては不要どころか有害きわまりないのです。
 鳴らしている本人の自己満足、ただそれだけ。
 お礼の「ピッ」ってやつくらいは、許容範囲だとは思うけど、あれはあれで過剰な礼儀かな、という気もするし。
 僕は、やたらとクラクションを鳴らす車には、「お前が苛立っているからといって、そのうるさい音で周りの車にまで苛立ちを撒き散らすんじゃない!」と説教してやりたくなります。むろん、そんな勇気はありませんが。
 あんなにビービー鳴らして猛スピードで走り抜けていった車が、次の信号待ちではすぐ隣、なんてことはよくあることですしね。

 ほんと、あれだけ不快な音をよくも開発したものだと、逆に感心してしまいます。
 車の運転中以外でも、みんなが「自己満足のクラクション」を鳴らすのをもうちょっと我慢することができれば、少しは生きやすくなるのになあ。