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2004年05月23日(日) ■ |
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「私」という小さなスペース |
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「デッドエンドの思い出」(よしもとばなな著・文藝春秋)の中の一篇「おかあさーん!」より。
(食中毒で死にかけた主人公の女性が、「もし自分が死んでいたら…)と遺された恋人のことを想像して考えたこと)
【そしてゆうちゃんはあの、ふたりで借りた部屋にたったひとり。 たったひとりで、ごはんを食べて、ふたりでいつも使っていたお皿を洗うのだろう。たったひとりでふたりのベッドに眠り、お休みの日はいつもふたりで行っていたプールにひとりで行って、帰りはいつも通りに本屋に立ち寄るだろう。 そう思うと、涙が出てきた。 いつか私よりもずうっと若くてかわいい女の人といっしょになって「昔、結婚しようとしていた女の人が、毒を盛られて死んでしまったんだ」とか話して、涙をさそい、ますますその人との絆をかたくしたりするんだろう。 でも、それまでのゆうちゃんの毎日から、私は消える。お葬式も終わって、ひとりでふたりの部屋に帰っていくゆうちゃん。得意な掃除を自分のためだけにするゆうちゃん。もう私の作ったパスタが食べられなくなるゆうちゃん。 私なんか、この世にいてもたいしたスペースはとっていない、そういうふうにいつでも思っていた。人間はいつ消えても、みんなやがてそれに慣れていく。それは本当だ。 でも、私のいなくなった光景を、その中で暮していく愛する人々を想像すると、どうしても涙が出た。 私の形をくりぬいただけの世の中なのに、どうしてだかうんと淋しく見える、たとえ短い間でも、やがて登場人物はいずれにしても時の彼方へみんな消え去ってしまうとしても、そのスペースがとても、大事なものみたいに輝いて見える。 まるで木々や太陽の光や道で会う猫みたいに、いとおしく見える。 そのことに私は愕然として、何回でも空を見上げた。体があって、ここにいて、空を見ている私。私のいる空間。 遠くに光る夕焼けみたいにきれいな、私の、一回しかないこの体に宿っている命のことを。】
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僕も自分のことを「この世にいてもたいしたスペースはとっていない人間」だと思っています、いや、思っているつもりです。 でも、この主人公の独白は、とても心に響くものだったのです。 客観的にみると「人類に絶対必要な人間」なんて、ひとりもいないのではないでしょうか?要するに、その死に対して悲しむ人が多いか少ないかの違いだけのことで(まあ、後追い自殺とかしてしまう人もいるんですけど…)。 「自分の葬式に出てみたい」なんて思う人はけっこういるらしくて、「そういう場でこそ自分の真の価値はわかる」と昔から言われているのですが、実際にさまざまな「死」に接していると、本当の悲しみというのは、あの告別式の読経のなかで顕れてくるものではなくて、そのあとの日常の風景のなかにあるもののような気がします。 その人が使っていた食器とか、好きだった食べ物とか、とくに意味のないことが書いてあるメモとか、そういうものを目にしたときの「喪失感」というのは、本当に言葉にできないものだから。
ゆうちゃんは、もしかしたらもう、同じ本屋やプールには行かないかもしれません。 もちろん、彼女のことを思い出しながら行くかもしれないし、どちらが正しいとか、そういうことではないけれど、少なくとも、そこには「同じだけれど、同じじゃない日常」しかないものだから。
その一方で、死にゆく人間としては、自分がいなくなっても変わらず続く日常を想像するというのは、なんとなく淋しくて悔しい気もするんですよね。 僕自身も「失ってしまった人」のことを思い出して淋しく思うこともあるのです。そして、その人のことを思い出す感覚が少しずつ長くなっていく自分の冷たさに、よりいっそう淋しくなることもありますし。
ひょっとして、人間というのは「自分がいなくなったら淋しく思っている人」を探して長い旅をしているのかもしれません。 そして、そのために頑張って生きようとしている。
それでも「生きている」というのは、ただそれだけでもかけがえのないことなんだな、僕はこの文章を読んで、そんなことを考えました。 他の誰のものでもない、小さな小さな、僕のための大事な場所、それが今、ここにあるのだから。
P.S.【いつか私よりもずうっと若くてかわいい女の人といっしょになって「昔、結婚しようとしていた女の人が、毒を盛られて死んでしまったんだ」とか話して、涙をさそい、ますますその人との絆をかたくしたりするんだろう。】という部分は、なんだか「世界の中心で、愛をさけぶ」に対する皮肉みたいで、僕はちょっとだけ笑ってしまいました。
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