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2004年02月27日(金)
麻原彰晃の死刑判決と「オウム真理教」の風化

毎日新聞の記事より。

【地下鉄、松本両サリン、坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われたオウム真理教(アーレフに改称)の松本智津夫(麻原彰晃)被告(48)に対し、東京地裁は27日午後、求刑通り死刑を言い渡した。小川正持(しょうじ)裁判長は、一被告の犯罪としては戦後最多の計26人の殺害、1人の逮捕監禁致死を含む全13事件について有罪を認定し、「教祖」の首謀を明確に認めた。

 教団の一連の事件では、計27人が犠牲になり、約6000人が負傷した。最後に残った松本被告への判決で、起訴された189人全員の1審が終結した。死刑の宣告は12人、無期懲役は6人(うち3人が既に確定)に上る。

 松本被告は95年5月に逮捕され、計17事件で起訴された(後に審理迅速化のため薬物密造4事件を取り消し)。96年4月から始まった公判は、検察側と弁護側が全面的に対立し、延べ500人を超す証人尋問が実施されたために、判決まで7年10カ月を費やした。この日まで257回に及んだ公判で、被告は無罪を主張した時期もあったが、昨年の被告人質問や最終陳述では沈黙したままだった。

 ◇

 松本被告の弁護団は同日夕、控訴した。】


参考リンク:「オウム真理教・事件関連年表」

〜〜〜〜〜〜〜

 「オウム真理教」の教祖であり、日本中を震撼させた一連の「オウム真理教事件」の首謀者である麻原彰晃に、今日、死刑判決が下りました。
 裁判の開始から7年10ヶ月が過ぎています。

 「オウム真理教事件」は、日本中に大きな衝撃を与えたのですが、どちらかというと興味本位の取り上げられ方が多かったような印象もありますし、僕たちの仲間内でも、不謹慎なことではありますが宴席のネタなどにも度々されていたような記憶があります。
 傍からみたら、これほど異常な事件もないわけですが、それと同時に僕を驚かせたのが、幹部たちがやたらと高学歴だったり、分別がありそうな大人だったりしたことです。
 医者の卵だった僕には、医師である林郁夫被告がやったことなどは、疑問で仕方がなくて。

 僕は、オウム真理教の脱会者のインタビュー本を読んだことがあるのですが、彼らに感じたのは「非現実感」だったのです。現実にうまく適応できなかったり、自分の無力を痛感して自信を無くしていた人々が、「カルト教団ごっこ」をやっているうちに、いつの間にかバーチャルな世界と現実が逆転して、あんな事件を起こしてしまう結果となったような。

 参考リンクに「オウム真理教の事件関連年表」を置いたのは、「ちょっとおかしい人たちが起こした異常な事件」と思われがちなこの一連の事件は、最初はどうだったのかを知っていただきたかったからです。仕事がうまくいかなくて、あれをやったりこれをやったり…「教祖」だって、別に特別の人間ではなかったのです。
 麻原彰晃という人物は、視力の障害を持っており、そのことで人生がうまくいかないというコンプレックスを持ったひとりの人間でした。それが、「オウム神仙の会」をつくったことによって、彼の周りには人があつまり、大教団が形成されていきます。
 でも、これって、考えてみれば、「オウム真理教」はこういった新興宗教のうちで、もっとも(信者・資金集めに)成功した例だというだけで、あの時代には、同じような「宗教」はたくさんあったのです。そして、今も存在しているものもたくさんあるのです。
 もちろん「宗教」=「悪」というのは偏見であって、宗教的倫理というのは、人間の生活規範であったりもするのですが。

 僕の先輩に、今でも行方がわからない人がいます。
 彼はあの事件が起こる前に、オウム信者として出家してしまいました。
 もちろん、聖人君子ではありませんが、ごくごく普通の人です。
 彼がオウムの信者になった理由は、「彼女に振られて落ちこんでいるときに、本屋で麻原彰晃の本を手に取ったこと」でした。
 僕はいまだに、自分がオウム信者にならなかったのは、自分が立派で利口な人間だったからではなくて、運がよかっただけなのではないか、なんて考えることがあるのです。
 何かにすがりたくなるときって、誰だってあるはずだと思うから。

 「オウム真理教」は、麻原彰晃という人間の幻想を多くの人間が共有することによってつくられた、オンラインゲームのようなものだと思います。
 でも、そうやって信じているうちに、彼らの幻想はどんどん肥大化してしまったのでしょう。そして、「ここから抜けたら、もう生きていけない」という恐怖。
 
 人類史上に残るナチスの非道も、今回のオウムの事件も、実際にそれを行ったのは特別な人間ではなかったと思うのです。普通の人が、自分が普通(あるいは普通以下)であることに耐えられずに創ろうとした幻想の王国。自分が「特別な人間」である社会。ヒトラーや麻原彰晃の異常性を引き出したのは、ひょっとしたら彼らに投影された信者たちの妄念なのかもしれません。
 オウム真理教はもう過去のものだ、と思われているのかもしれませんが「オウム真理教的なもの」というのは人類史上、絶えたことがないのではないでしょうか。
 僕は「社会が悪い、麻原の死刑はおかしい」なんて言うつもりは全然ありません。人間は自分がやったことに対して責任をとるべきだと思います。社会なんて、その時代に生きる人間にとっては、昔からずっと悪かったんだから。
 でも、麻原彰晃や池田小事件の宅間のような、「倫理のベクトルが根本的に違ってしまった人間」を目の当たりにすると、なんだかこの連中を死刑にしても、どうしようもないんじゃないか…なんていう無力感もあるのです。麻原彰晃なんて、このまま死刑になったら、将来的にかえって「殉教者」として崇められるようになるのでは?とか。「何かを信じたい人」というのは、僕も含めて、この世界に溢れているのだし。

 控訴によって、裁判はまだ続くのでしょう。
 サリンの後遺症に苦しんでいる人たちは、まだまだたくさんいますし、「オウム予備軍」とも言うべき新興宗教だって、僕たちの周りにたくさん存在しています。
 それでも、オウムの記憶は次第に風化していって、多くの人が「これはオウムとは違う」と思い込んで、せっせとお布施を続けている。

 麻原彰晃の死刑は、当然の判決です。
 でも、結局オウムが事件を起こした時代から、人間の心は何も進歩していない。
 ただ、そんな気持ちがして、寂しくなるばかりです。

 本当は、麻原彰晃というのは、ものすごく不幸であり、その一方でものすごく幸せな人間なのかもしれない。
 そう思うのは、僕だけですか?