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2004年02月12日(木) ■ |
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「戦争反対!」という落書きで有罪になった男 |
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共同通信の記事より。
【イラク戦争のさなか、公園の便所の外壁に「反戦」などとスプレーで落書きし、建造物損壊罪を適用して起訴された東京都杉並区に住む書店店員の男性被告(25)に対し、東京地裁は12日、懲役1年2月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)の判決を言い渡した。 木口信之裁判長は判決理由で「便所の外観を著しく損ね、被害は軽視できない。安易に違法な表現方法を採り、反省もうかがい難い」と述べた。 公判で弁護側は「落書きで便所の使用が困難になることはなく、建造物の損壊に当たらない」と無罪を主張したが、木口裁判長は「便所を見る者に一種異様の感を抱かせ、利用への抵抗感を与えかねない」と退けた。 「表現の自由の範囲内」との弁護側主張に対しても「便所がある公園の設置者の所有権、管理権侵害は許されず、被告にはほかの表現手段もあった」と指摘した。 判決によると、被告は昨年4月17日午後8時半ごろ、東京都杉並区の公園の便所外壁に「反戦」「戦争反対」などと大書。直後、近所の人に見つかり、警視庁荻窪署員に突き出された。】
参考リンク:「落書き反戦救援会」
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このニュースとリンク先のページを見て、僕が思ったのは、「こういうのって、無意味だよなあ」ということでした。 「戦争反対」という主張そのものには僕は賛成ですけど、だからといって、公共物であるトイレに落書きで主張するようなことじゃないし(だいたい、それじゃ「用を足しにきた」人々にしかアピールできないわけですから)、自分が使うトイレにそういう落書きがしてあったら嫌だなあ、なんて思うのです。ネットでやったほうがスマートだろうに。 もっとも、中学校や高校(予備校や大学でも、ですね)の男子トイレなんてのは落書き天国で、個室の中には「よく来たな」というようなものから、「○○ちゃん大好き!」あるいはちょっと卑猥な絵まで、たくさんの落書きがしてあったものでした。 そういう意味では、「トイレに落書きをしたくなる」という気持ちはわからなくもないのですが…
とはいえ、そういう主張のやり方に実効があるかと言われれば甚だ疑問と言わざるをえませんし、トイレの落書きを見て「ああ、俺も戦争反対派になろう!」なんて思う人はいませんから、実際のところは、「単なる落書きに、後からいろんな意味が付随されてしまっているだけ」というような気がします。 裁判官が言うように「安易に違法な表現方法」で「被告には他の表現手段があった」のですし、「主張の内容の正しさ」が「主張のプロセス」を正当化するものでもありません。 むしろ、こういうのは暴走族の「夜露死苦!」とかと同じレベルの印象しか見る人間には与えないし、逆に「正しいことを主張するためなら、みんなに迷惑をかけてもいいのかよ!」というような「戦争反対」という主張自体への嫌悪感を招きかねません。
ただ、これで執行猶予つきとはいえ、懲役刑というのもちょっと厳しすぎるかなあ、とも思うんですよね。「たかが落書き」ですし。 そういうふうに問題を大きくしてしまうことによって、マスコミなどから「戦争反対の闘士が、弾圧を受けた」かのような報道がされてしまっているような面もありそうです。 一般的な暴走族が書くような内容の落書きだったら、どうだったのだろう?なんて考えてしまう面もあるわけで。おそらく、「本人が反省していなかった」とかいうのが、罪が重くなってしまった要因でもあるんでしょうけど。
実際は「反戦を主張したことが罪」なんじゃなくて、「公共物に使用者が困るような落書きをした」ということが罪に問われているのに、「問題のすりかえ」が行われてしまうのはちょっと怖いなあ、とも思うのです。 「正しいこと」を主張するというのは、勇気がいることです。しかしながら、「正しいことを主張するためなら、何をやってもいい」というのは、非常に怖い発想だと僕は感じます。 ナチスだって、オウム真理教だって、「正しいこと」を世界に広めようとして、あのような行為に及んでしまったのですから。 彼らのやったことは、「歴史的犯罪」ですが、逆に「歴史的犯罪」というのは、当事者が「自分は正しい」と思ってやったことばかりです。 「自分で悪いと思いながら行う悪事」で、何万人も人は殺した例は皆無です。
本当に、「正しいこと」ほど怖いものはないのです。少なくとも「正しいことのためなら、他人に迷惑をかけてもいい」というのは、本当の「正しさ」ではないと思います。
しかし、そんなふうに考えていくと、何を信じていいのかわからなくなるのも、また事実なのです。 「自分は何も信じない!」と頑なになるのも、「信じないというのを信じている」わけですし。
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