初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2004年01月18日(日)
「参加する人間」と「観察する人間」

「濃い人々〜いとしの作中人物たち」(群ようこ著・講談社文庫)より。

【周りの既婚者を見ても、順風満帆できた夫婦はほとんどいない。山あり谷ありどころか、谷ばかりという夫婦もいるが、お互いにぶつぶつと文句をいいながらも別れずにいる。
「私だったらとっくに別れちゃうのに」
 といつも考える。人のお金で生活したいと考えるようになってから、どうして自分は結婚する気にならなかったのかと自己分析してみると、私は「参加する人間ではなく、観察する人間」だからだ。興味がある事柄には積極的に参加するが、そうでないことには鼻もひっかけない。結婚は男女が造り上げていくものだ。そういう気力が私には全くない。世間体もどうでもいい。女だから結婚しなければとか、子供を持たなければなどとも思わない。そんなことよりも他人の慰謝料の話にものすごく関心を持ち、どのような夫で、どんな生活をしていて、どういう理由で離婚に至ったかを、あれこれ考えるほうが楽しい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読んで、思わず「僕もそうだなあ…」と頷いてしまいました。
 確かに、人間には大きく分けて「参加する人間」と「観察する人間」との二つのタイプがあるのかもしれません。
 僕はスポーツ一般は大の苦手なのですが、観るのは結構好きです。格闘技も自分が誰かと殴りあうのはまっぴらごめんですが、他人どうしが殴り合いで「どちらが強いか」を決めるのは嫌いじゃありません。
 スポーツとかだととくに「観てるだけじゃ、面白くないんじゃない?自分でやってみたら?」というように勧めてくれる人がいるものですが、運動神経が鈍い人間としては、自分でやるのはストレスが溜まるばかり。

 同じように、世の中の「ニュースが好きな人」が「政治的な活動をしている人」と一致しているとは限りませんし、「恋愛小説が好きな人」が、現実の恋愛に対して積極的とは限らない。
 もちろん、スポーツを観ていて自分ではじめる人もいるでしょうし、小説を読んで、小説家になろうと自分で書き始める人もいます。
 ただ、「観察すること」のほうが好きな人、観察するだけで満足してしまうタイプの人もいる、というのは、動かせない事実なのではないでしょうか。

 僕もこうやって、世界の状況とか自分で考えたことについて、とりとめもなく書いているのですが、その一方で、選挙の投票にはあまり積極的に行きませんし、戦争反対デモに参加したこともありません。
 「言行の一致」という観点からいえば、恥ずかしいことこの上ないんですが、たぶん、僕も「観察する人」なのだと思います。現実に参加するのは苦手でも、現実にツッコミを入れるのが大好きな。
 とはいえ、僕はまだ、群さんのように「世間体なんてどうでもいい」とまでは悟りきれず、こうして毎日「参加している」わけですが。

 ところで、僕は最近、この人が羨ましいなあ、と思う人がいます。
 それは、日本ハムに入団した新庄選手で、彼は、何も考えていないようで、やることが絵になるタイプ。天真爛漫でマイペースです。
 僕もああいうふうに、行動的な人間になりたいなあ、なんて同世代の男として憧れます。自分には無いものを持っている、陽気なムードメーカー。
 彼は、典型的な「参加する人」なんでしょう。

 しかし、なかなか真似できるものじゃないんですよね、現実には。
 新庄選手は「新庄のように生きよう」なんて思ったこともないでしょうし、そんなふうに意識してしまうこと自体が、「観察する人」の限界なのかもしれません。

 まあ、僕も含めて、多くの人は「参加する人間」である自分と「観察する人間」である自分の微妙なバランスをとりながら、日常生活を送っているのです、きっと。