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2004年01月04日(日) ■ |
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仕事にゆくたびに、毎回毎回うそをつく。 |
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「できるかなV3」(西原理恵子著・扶桑社)より。
(「約束」というタイトルのマンガから。)
【仕事でいろんな国にゆく。いろんな人にあう。 カンボジアで体中に傷のある小さな少年は、チョコをあげると急に乞食から子供の顔になって、仲良しになれた。 毎日ホテルの前にいて、「今日帰るんだよ」と言うと 「今度いつくるの?またあえる?」と聞く。 私は「うん、またくるからね」と約束する。
でも、もう一生あえない。
仕事にゆくたびに、毎回毎回うそをつく。】
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西原さんのような「おそらくは永遠の別れ」というようなものではないにしろ、新しい年の始めに、僕は年賀状を読みながら、人間というのは嘘つきだよなあ、なんて切なくなることがあるのです。 それはもちろん、悪気がある嘘ではなく、人間の美点ですらあると思うのですが。 僕自身、最近会っていない旧い友人への年賀状に、「今度一緒に飲みましょう」なんて言葉を書きながら、「去年も、一昨年も同じことを書いていたよなあ」と自分でも思ってしまうのです。 一年間全く会っていないような人への年賀状なんて、近況報告と「今年もよろしくお願いします」くらいで終わらざるをえない、なんてことは、客観的には理解できているはずなのに。 だからと言って、「どうせ会わないとは思うけど」なんて正直に書くのが正しい、とも思えません。 とはいえ、「会いたい」という気持ちがあるのは事実だけど、「どうせ会わないんだろうな」という予測が立ってしまうのも事実なわけで。 家族の写真とメッセージが印刷された年賀状をいただくたびに、「こういうのはラクでいいよなあ」なんて思ってもみるのです。宛名書きだけでいいわけですし。 人生に派手なイベントもない30男の年賀状なんて、何も書くことないもんなあ。
でも、「また今年も同じこと書いてるよ」なんて思いながら、そんなに悪い気持ちはしないですしね。とりあえず、自分と同じように、無事でいてくれればそれでいいかな、などという気もしますし。 そういう「ゆるやかな繋がり」というのも悪くない。 年に一度だけでも「そういえば、今年もあいつと飲めなかったな」なんて思い出すのも大事なことなのかもしれません。 常日頃密に接している人なんて、両手くらいで足りるだろうし。
医者をやっていると「仕事のうそ」は避けられないことがあります。 末期の癌の患者さんに「先生、私の病気は治りますか?」と問われた際に、いきなり「ほとんどムリですね」なんて言えるわけもない。 「良くなるように、一緒に頑張りましょうね」と言いながら、罪の意識を心の置くの隠し金庫にしまって、柔らかい笑顔をつくり、次の患者さんの部屋に行くのです。 ときどき、そういう「罪の意識」は、僕の心の金庫から溢れ出しそうになって、心をガタガタと揺らすのです。 僕も生きるためにこの仕事をやっているのですが、ときどき、「生きていく」というのは悲しいことだな、と思います。
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