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2003年12月26日(金)
「好き」という感情の難しさ。

「いつもひとりで」(阿川佐和子著・文春文庫)より。

【こんなふうに(散歩の途中で「一目ぼれ」して)気に入って持ち帰ってみたものの、いざ料理を盛り付けてみると、少しがっかりする場合もある。不思議なもので、店で見ていたときのほうが見栄えがするのだ。眺めているぶんには相変わらず美しいのだが、どういうわけか使いづらい。出来上がった料理を鍋からお皿に移すとき、さてどのお皿にしようかなと棚に目を走らせながら、つい敬遠してしまう。
 反対に、たいして思い入れはなかったはずのうつわが、案外、使い勝手がよく、結果的に年中、食卓に登場することもある。そういううつわはおのずと食器棚の前列に並ぶようになる。】

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 本当に、人間の「好み」なんて、自分でもよくわからないところがあると思うのです。僕は食器を集める趣味はないのですが、レンタルビデオに行ってビデオを借りるときに、「お目当ての一本」とは別に、「せっかくここまで来たんだから」ということで、ついでに借りたビデオのほうが面白かったことってないですか?
 もしくは、「時間のあるときに、ゆっくり読もう」と思って買っておいた本は結局ずっと本棚の中で、ついでに買った本は何度も読み返してしまったり。
 ゲームとかCDなどでも、似たような経験をして「しまった!」とか「あのときこれを手にとっておいて良かった」というような経験が、僕にはよくあるのです。
 それはもちろん、「目当てだったほう」には多大な期待をかけすぎていたり、「目当てだったほう」は、概して「重い」作品だったりして、手がつけにくい、なんて事情もあると思われます。
 でも、その一方で、そういう「ものすごくいいものを選ぼう」とか「これは評判が良いから面白いに違いない」というような、過大なプレッシャーから解き放たれた状況で、なんとなく手に取ったもののほうが、むしろ自分の好みや感性に合ったものであることが多いのではないか、という気もするのです。
 感動的な大河小説よりすぐ読めるエッセイ、長い間遊べる超大作RPGより、ちょっとした息抜きに遊べるパズルゲーム。
 この年になって、僕は本当は、文学作品よりエッセイの方が好きだったり、感動の超大作映画よりちょっと笑える小品の映画のほうが好きなんじゃないかなあ、ということに気がついてきたような気もするのです。

 人間に対する好みにも、同じようなところがあると思うのです。
 「こんな格好じゃ誘えない」とか「こんな普通の店じゃ悪いよなあ」とか思うような相手よりも、自分でムリをしない範囲で付き合っていける人のほうが、結局長続きもするし、いい付き合いをしていけることってないですか?
 憧ればかりで実際に接するときには緊張するような関係よりも、本当の「好き」というのは、実は、日常の中にあるのかな、なんて考えてみたりもするのです。

 そういえば、好みのサイト選びなんかもそうですよね。
 一見して「これは凄い!」と思ってブックマークしたようなところに、いつの間にか行かなくなったり、「たいしたことないけど、なんとなく気になる」というようなサイトに、気がついてみれば毎日入り浸っている、なんてこと、けっこうありませんか?

 本当に、自分の「好み」なんて、自分でもわからないものだよなあ、なんてことを、この年になって僕はあらためて考えてみるのです。