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2003年11月07日(金) ■ |
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「暴走族は産廃以下」ではないけれど… |
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毎日新聞の記事より。
【「暴走族は産廃以下」。茨城県で起きた暴走族脱退を巡るリンチ致死事件の少年審判で、暴走族だった2少年に裁判官が向けた発言が波紋を広げている。非行少年の立ち直りを目指す審判での発言として疑問視する声がある一方、発言を取り上げた報道機関には「この裁判官は市民の気持ちを代弁している」「何が問題なのか」と発言を支持する多数の意見が寄せられた。相次ぐ少年の凶悪事件への厳しいまなざしが背景に浮かぶ。】
参考リンク:<「産廃以下」発言>「裁判官は市民の気持ち代弁」(毎日新聞)
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僕は、「暴走族が産廃以下」だとは思いません。 でも、「暴走族は、人間として最低だ」とは思います。 もともと、「人間」と「モノ」を比較すること自体に問題があるんですよね。 そんなの「比較の対象として不適切」なことは、わかりきっているわけで。 だから、「暴走族と産廃の優劣は、比べようもない」としか言いようがない。 僕の個人的な立場から言うと、「現時点では、産廃の存在より暴走族の存在のほうが、自分にとってはるかに迷惑だ」ということになりますが。
この裁判官の心境はよくわかるし、裁判官の発言を支持する「善良な市民」の気持ちも理解できます。 ただ、法廷で自分の個人的な感想を述べてしまうというのは、この裁判官の「不注意」と言われても仕方がないことです。 裁判官は、法廷においてはワイドショーのコメンテーターではないわけですから。 せっかく、「最低の人間」たちを裁こうとする場だったのに、「産廃以下」とかいう失言のせいで、本来の「暴走族の少年たちが起こした犯罪行為」について「保護処分が妥当」とか弁護側に言われる隙を与えてしまうなんて。 「保護観察が妥当」なわけないと思うのですが、弁護士って大変だよなあ。
「暴走族は人間」でしょう、確かに。 でも、「生きている資格は無い」と思います。 (そもそも、人間が生きるのに資格なんて関係ないだろう、という考えもあるでしょうけど) 「人間」というのは、多かれ少なかれ、他人に迷惑をかけないと生きていけない存在ですが、「暴走族」とか「暴力団」なんてのは、自分の快楽のために、わざと他人に迷惑をかけようとする存在なわけです。 ゴキブリやミジンコならともかく、「他人に迷惑をかけることは悪いことだ」と理解できるはずの「人間」であれば、なおさら「生きる資格がない」のではないでしょうか? 相手がヘビだったら、「ヘビのくせに、噛み付くんじゃない」なんて誰も言いませんよね。 要するに、「もし人間だという自信があるのなら、最初からそんなことをするな!」と言いたい。 裁判官という職業は、なんとなく「気のきいた一言」を言いたくなるのかもしれませんが、どうか、そんな誘惑に負けずに、正しく罪を裁いていただきたいと思います。必ずしも、饒舌さは必要ではありませんから。 「産廃以下だけど、保護観察処分」よりは、「産廃以下じゃないけど、実刑」のほうが現実的な効果はあるはずです。
「産廃以下」だと言いたくなる気持ちはよくわかるけど、それはプロの裁判官の仕事じゃない。家のテレビの前で言えば良いことです。
それにしても、いまだに「少年マガジン」とかに暴走族礼賛みたいなマンガを載せたりしている大出版社って、どうにかならないのかなあ… 「発信する責任」とか、考えてる? そんな大人や会社こそ、「産廃以下」だと思うぞ。
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