|
|
2003年10月29日(水) ■ |
|
ずっと書き続けている「動機」 |
|
「週刊アスキー」2003・11・4号の進藤晶子さんと作家・町田康さんの対談記事より。
【進藤:町田さんは、もし今のような評価を受けていなかったとしても、ずっと書き続けてらしたと思われますか?
町田:賞が評価なのかどうかっていう、その“評価”っていうのがまた難しいんですけどね。たくさん売れるのが評価なのか、そういうのって、難しいですよね。
進藤:でも、大勢の人に読みたいと思われることが評価のひとつということにはなりませんか?
町田:ええ、もちろんそれもひとつの評価ではありますけど。でも例えば、大多数の人が読んでいても、もしかしたら自分のものすごく尊敬している人や、自分の愛しているただひとりの人に「全然おもしろくない」って言われたら、それは評価されてないことかもしれないじゃないですか。 「この人に評価されたい」っていうような動機っていうのもあっていいと思うんですよね。それは自分自身でもいいし、もし“芸術の神”というのがいるとすればそれでもいいのかもしれませんが、全世界の人が「これはサイテーです」って言ったとしても、自分が芸術の神に対して、嘘偽りなく表現しているのであれば、それはそれでオーケーなんじゃないでしょうか。
進藤:町田さんにとって、芸術の神はどなたなんですか?
町田:うーん、神を誰って言うのは難しいですけど、僕にとってはいわゆる自分自身の“良心”だと思うんですね。つまり、自分がどこまで強く思えるかどうか? でも本当は、基準があるとラクでしょ。】
〜〜〜〜〜〜〜
僕はもちろん、町田さんのように文章を書くことを生業としている人間ではありません。 でも、この町田さんのコメントを読んで、「さて、自分は誰のためにこうやって文章を書いているのだろうか?」と考えてしまいました。 少なくとも、僕は「誰か特定の人物に向けて」サイトに文章を書くことはなかったような気がします。 「あの人に読んで欲しい」というよりは、とりあえずボールを投げて、「誰か読んでくれて、何か感じてくれたら嬉しいなあ」というレベル。 「自分と同世代くらいの人」とか「本を読んだり、文章を書くのが好きな人」というような、読んでくださる方々の漠然としたイメージを持ってはいるのですが。 こうやってネット上に書かれる文章にとっては、「より多くの人に読まれること」というのは、それだけで大きな価値があります。 ただ、多くの人の眼に留まればいい、っていうわけではないですが、誰も読んでくれなければどうしようもないところもあるんじゃないかなあ、と。 町田さんは、この対談のなかで、「自分自身の“良心”」という基準を想定されています。 この“良心”というのは、「善意」というよりは、「自分で満足できるものしか世に出さない」というプライドだと僕は感じたのです。 それには売れているからこそ言える理想論の部分もあるような気もしますが。
しかし、売れなければ食べていけないプロの小説家ならともかく、個人サイトに書かれる文章では、この“良心”に対して妥協しないことは可能なのかもしれません。 もちろん、「芸術」と言えるほどの自信はなかなか持てませんし、すべての文章が芸術を志向する必要はないと思うのですが。 「芸術」でなくても、書き手には”良心”が存在するはずです。
まあ、せめて自分で納得できるものだけ公開できればいいんだけどなあ…と思う一方、自分で「これは上手く書けた!」と思ったものに反応がなく、「ちょっとこれは時間が無かったし内容も…」と自覚していたものが意外と好評だったりするのは、それはそれで面白いものなんですけど。
それにしても「全世界の人が『これはサイテーです』って言うような文章」って、凄いんじゃないかなあ…一度、そういうの書いてみたい(ムリでしょうけど)。
|
|