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2003年10月26日(日)
「あまりに芸術と捉えようとしすぎる」人々へ

「90くんところがったあの頃」(大槻ケンヂ著・角川文庫)より。

【江戸川乱歩に対する世の評価は、いささか偏っていると思うのだ。
 乱歩を、あまりに芸術と捉えようとし過ぎている。‘94年は乱歩生誕100年として、彼に対するたくさんの出版や映画化が相次いだが、どれもこれも乱歩を、それこそエドガー・アラン・ポーと人違いしているんじゃなかろうかと思うほどに芸術家扱い。それ絶対違う。
 たしかに、乱歩作品のいくつかは退廃の芸術と呼ぶにふさわしいものだ。しかし多くは、ヨタ、バカの領域にあるC級エログロ小説なのである。そちらの側こそが乱歩の本当のおもしろさなのである。ハッキリ言って、もっと笑っちゃっていいものだと思うのだ。】

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 大槻さんも自分で小説を書かれていますから、こういう「自分の書きたかったもの」と「世間の評価」とのギャップを感じることが多いのかもしれません。
 先日、上方漫才の第一人者として長年活躍されていた、「夢路いとし・喜味こいし」の夢路いとしさんの追悼番組を観ていたのですが、確かに、絶妙の間には、「すごいなあ」と感心してしまいました。今聞いても面白い。
 しかし、その番組で、終始、彼らの漫才を「芸術」として褒め称えていたのには、僕はなんとなく違和感を感じたのです。
 確かに、「すばらしい芸」ではあるのです。
 でも、なんでも「感動の芸術」にしてしまうのは、どうかなあ、と。
 そういうのって、受け手の考えすぎで、本人たちにしてみれば、「何も難しく考えずに、笑ってくれればいいのに」って思っているのではないでしょうか。
 マンガとかでも、大ヒットすると「裏読み」したがる人々が出てくるものなのですが、そうやって「芸術」として祭り上げられることによって、「この芸術性がわからないやつはダメだ」なんて言われて、普通の人々に敬遠されてしまうことは、はたして幸せなことなのかどうか。
 ただ「カッコいい!」とか「面白い!」とかのリアクションのほうが、嬉しかったりしないのかなあ。
 それとも「あなたの作品は芸術です!」って言われているうちに、本人もその気になってくるのでしょうか?
 故手塚治虫さんは、マンガの神様みたいな存在ですが、彼の作品の多くは、「芸術」を描こうとしたものではなく、彼自身の興味の対象や読者に訴えたいこと、そして何より、マンガという手段で読者を楽しませようとしたものだと思うのです。

 江戸川乱歩さんの作品については、確かに、C級エログロが多いんですよね。
 でも、それは確信犯であるわけで。
 「少年探偵団」にしても、一連の奇談系の作品にしても、「退廃の芸術」を本来志向していたものではなく、読者を驚かせてやろう、とか面白がらせてやろう、というようなサービス精神のたまものなのですから、わかる人はゲラゲラ笑えばいいし、わからない人は、「何これ?」でいいんじゃないかなあ。

 なんでも「芸術」にして、「この芸術性がわからないなんて…」とか言いはじめる人々によって、かえってダメになってしまった作家や作品というのは、けっこう多いのではないでしょうか?
 本当にその「芸術性」とやらを理解しているわけではなくて、「自分はこの芸術性がわかる、特別な人間だ」とアピールしたいだけの人たちって、けっこう多いんだよなあ。

 あんまり外野の声に惑わされずに、面白かったら面白い、わからなかったらわからない、きっと、それが正しい。

 映画を観た人全員が「タランティーノって凄い!」とかいう世の中は、それでそれで異常なわけですし。