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2003年10月17日(金)
ヨハネ・パウロ2世の「神への責任」

時事通信の記事より。

【ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(83)の即位25周年を祝うミサが16日夕、バチカンのサンピエトロ広場で5万人以上の信者を集めて行われた。この中で法王は「神は私に責任を果たすよう求めておられている」と述べ、退位の観測を改めて否定、最後まで法王にとどまる決意を示した。】

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 詳細を伝える記事によると、【法王は車がついた椅子(要するに、車椅子)に座り、演説の最初と最後の部分のみを震える声で読み上げた。】のだそうです。
 ちなみに、それ以外の部分は他の人が代読。
 最初、法王の声が途切れると、参列者からの励ましの声が会場を包み、それに応えるように法王は話を続けられたのだとか。

 ローマ法王・ヨハネ・パウロ2世は、キリスト教の聖職者の頂点に立ってから25年もの間、職務をまっとうしてこられました。
 確かに、僕が物心ついてから、ローマ法王はずっとこの方だったような気がします。
 もちろん、キリスト教徒ではない僕にとっては、ニュースの端々に出てくる人、というイメージでしかなかったわけですが。

 ヨハネ・パウロ2世は、ポーランド出身(イタリア出身者以外では、455年ぶりの法王就任だったのだとか)で、58歳の若さで第264代のローマ法王に就任。1981年には暗殺者に腹部に銃弾を撃ち込まれる事件もありましたが、在任中、世界中を歴訪し、また、2000年には、カトリック教会の歴史上初めて、過去2000年間にキリスト教会が犯した罪(十字軍や魔女裁判、ナチスによるユダヤ人虐殺の容認など)を懺悔しました。
 近代のローマ法王(教皇)の中では、もっとも精力的な活動を続けている人です。

 その一方、東ヨーロッパ社会主義政権に反対した経歴があるにもかかわらず、人権と宗教の自由、労働者の権益保護のため、先頭に立って戦ってきたため、「社会主義者法王」とも呼ばれ、また、堕胎、避妊、離婚、同性愛などに終始反対の姿勢をとってきたたことから、先進的な宗教家たちからは反動主義者と目されてもいたようです。

 最近、法王の健康問題がクローズアップされてきており、「引退」についての議論が盛んです。
 基本的に、ローマ法王は「死ぬまで」が任期なのですが、現在パーキンソン病をわずらっているとされている法王は、傍目でみると、この激務を続けていくのはキツイんじゃないかなあ、と思えます。
 現実的に、どの程度の職務を自力でこなされているのかは、なんともいえないところではありますが。

 でも、体力が衰え、自ら「神に召される日も遠くない」と発言されている法王が職務を続ける姿に、神々しいものを感じてしまうのもまた確か。
 「老いた体を省みずに職務をまっとうしようとする法王」というのは、約10億人が進行している、カトリック教会のシンボルに相応しいともいえるんですよね。
 もし、「ごめん、キツイから引退する」ということになれば、なんとなく「期待はずれ」な印象を与えてしまうのではないでしょうか?

 この法王の姿を見て、「偉い人」とか「立派な人」というのは、たいへんだなあ、と思います。
 もちろん、やりがいのある仕事を与えられているというのは、人間にとって喜ばしいことではありますが、偉くなれば、他人に弱みを見せることができない場合も多いし、ほんの少しイメージを壊すようなことをしただけでも、落胆されたり、非難されたりするのです。呑み会とかでも、上司がいなくなったら、「じゃあ、飲みなおそうか!」っていうふうになることって、けっこう多くないですか?

 もしローマ法王じゃなかったら、足元が覚束なかったり、話していて声がかすれてしまう83歳男性に、「働け!」なんて言う人は誰もいないでしょうに。

 それでも、周囲の人々はみんな、ローマ法王の体を心配しつつも、法王が最期まで法王でありつづける、というドラマを期待しているわけです。

 自分が衰えていく過程すら、他人の眼にさらさなければいけない「責任」。
 僕たちは、偉くなることやみんなに尊敬されることに憧れがちですが、それって、いいことばっかりじゃないんですよね、きっと。
 「信じる者」の存在って、「信じられる側」にとっては、やりがいでもあると同時に大きなプレッシャーでもあるんですよね。

 むしろ、信者たちこそ「神」なのかもしれないなあ。