|
|
2003年07月15日(火) ■ |
|
ゲームがいちばん楽しかった頃の記憶。 |
|
「将棋の子」(大崎善生著・講談社)より。
【将棋盤はノートにボールペンで書いて作った。そこに鉛筆で駒を書きこみ、消しゴムで消して駒を動かすのである。いくべき場所に移動させたい駒を書きこみ、移動させた駒をごしごしと消しゴムで消す。何局か指すと将棋盤はぼろぼろになってしまう。そうするとノートの新しいページに定規とボールペンで線を引き、またたく間に新品の将棋盤ができあがってしまうというわけである。 休み時間になると皆で夢中になって、今考えればとても将棋とは思えないような、しかしまぎれもなく将棋の対局をした。駒の動かし方とルールを知っているだけで、定跡なんか一つも知らなかった。それでも勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった。】
〜〜〜〜〜〜〜
ああ、僕もそうだったなあ、とこの文章を読んで、懐かしくなりました。 著者は、僕よりもちょうど10歳くらい年上の方なのですが、そういう風景は、一緒だったんだなあ、と。僕も将棋、けっこう好きだったんですよね。
僕たちは、紙に書いた将棋盤のほかに、紙で作った将棋やオセロの駒、もうちょっと学年が上がってからは、紙麻雀などもやっていたものです。 「定跡なんて知らなかったけど、勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった」というのは、まさにその通りでした。今から考えると、「負けて当然」のような拙い技量であっても、その難しいゲームをやっていること自体が楽しかったし、相手に勝てれば、すごく嬉しかったものです。 親になかなか勝てなくて、勝つまでしつこく何度も挑戦してたなあ、などと思い出したり。 そういえば、僕がパソコンに初めて触ったときは、こうやってキーを叩くと画面にその文字が表示されたり、カーソルキーを押すとキャラクターが動くというだけで感動していました。 こんなことができるなんて、スゴイ!って。
テレビゲームに初めて触れた子供たちも、きっとそんな新鮮な喜びを感じていたはず。
世界は日々進歩して、僕も年を重ね、ディスプレイに文字が表示されることどころか、こうやって自分の書いたものがネットを通じて世界中に発信されることにすら、ごく当たり前のような気持ちになっています。
はじめて将棋をやったときや、はじめてコンピューターに触れたときのような「進歩を実感する驚きと喜び」が自分に無くなってきているのは、ちょっと寂しいような気がするんですよね。
|
|